れんぎょう、という花を知っているだろうか。
 高校二年の春、僕は学校がえりに近道を探していつもと違う細い道に迷い込んだ。僕が住んでいたのは東京近郊ではあったけれど、まだ宅地化もたいして進んでいないようなところで、薮や林がたくさんあった。田舎、とはっきりいってもいい。ここをまっすぐ抜ければ自宅まで近道、という雑木林の中で僕はその花に出くわした。
 春浅い季節に目に入る範囲を全て埋めて、鮮やかな黄色い花が咲き誇っていた。広さは田んぼ一枚分くらいだったと思う。葉はなく、少しひねったように咲いている、小さくて細長い花がびっしりと枝からさがり、その風景を雑木林のほんのわずかな緑色が額縁のようにまわりを飾っていた。鳥の声も自動車の音もしない。一枚の絵のように、花の咲く光景があった。
(すっげえ)
 このとき僕はこの花の名前を知らなかった。ただ家の近くにこんな風景があることに驚いていた。
 思わず自転車を止め、一歩踏み出した。敷き藁を踏む。誰かが世話をしているようだった。そういえばこの辺は農家が多くて、農家の裏庭ではよく梅や海棠が咲いていた。つつじなんかが植えられている時もあった。
 しかしそんなものとはスケールが違っていた。奥行きの分からない一面の黄色に圧倒され、自転車を降りたもののこれ以上踏み込んでいいものかどうか迷い、僕は一歩のあとはそこに立っていた。金縛りにあったようだった。
 重なった黄色の間から誰かが現れた。花と同じ色のワンピースを風にそよがせ、少し下のほうを巻いた長い髪をふたつに結んで、彼女は僕を見た。
「誰?」
 かぼそい声で僕に聞く。同じ年ぐらい、そう思った時、突然に彼女はその場から消えうせてしまった。
(花の精)
 尋ねた後に少し目を伏せた顔が印象的だった。急に金縛りが解けて、僕は自転車に飛び乗り一目散に走って帰った。
 次の日も、その次の日も僕はあのれんぎょうの森に通った。時が止まったようにそこは静かで、いつも敷き藁を一歩踏んだところで彼女が現れる。そうして僕を見て、目を伏せて消え去るのだった。僕は彼女が現れるとその場に立ちすくみ、消え去ると自転車をこいで家に帰った。ただそれだけだった。彼女に触れたり、声をかけたりしてはいけないような気がしたし、どうしたらいいのかも分からなかった。
 季節が動いたら彼女はどうなるのだろう、そう思ったのは日差しが変わったときだった。ガラスのような陽光がぬくもり、サクラの咲くころにはれんぎょうの花は終わってしまう。彼女はあのワンピースを着替えて現れるのか、それとも消え去ってしまうのか僕には気ががりだった。いつ花が終わってしまうのか不安になりながら、僕は毎日、雑木林に通っていた。
 月曜日、あの森は雑木林ごとなくなってしまっていた。近道を通ろうと思ったら林がなく、僕は道を一つ間違えてまた戻ってきた。宅地造成とやらで日曜日にブルドーザーが入り、すべてをひっくり返してしまっていた。
(そんな)
 敷き藁も花もなかった。掘り返されたばかりの土が乾いて粉を吹いていて、一歩を踏み込むと靴が柔らかい地面に沈んだ。バイクが走りまわるエンジン音が遠くから響いてくる。僕はいつも彼女が立っていたあたりまで歩いていった。もちろん、そこにも何もなかった。
(月の晩に)
 最初の日と同じ声だった。かぼそくても僕にはよく聞こえた。
 半分地面に埋もれて木の枝が落ちていた。僕はそっとそれを拾い上げた。

 今日が満月になる。ここまでくるのに三十年かかった。あの枝を最初は小さな植木鉢に、次に自宅の庭に移した。木が大きくなってきたので僕はそのために広い土地を買い入れ、そこにあのれんぎょうを植え替えた。世話をしているうちに一本の枝は木になり、林になった。シーズンには花をつけたが彼女を呼び出すにはまだ全然足りなかった。
「園芸ですか。いいご趣味ですな」
 周囲の人間はそんな風に言っていたが、僕にとってはそんなものではなかった。結婚話を持ってくる人もいたが、断りつづけているうちにそれもなくなった。
 やがて林は森になり、花の季節には近所の人が見に来るようになった。僕は農家から藁を貰ってきて地面に敷き、根を踏み荒らされないようにした。放置していたれんぎょうの木の周囲はいつのまにか雑木林に変わっていた。僕が踏み固めた道はあのときのように林を割って一本に続いていて、時々高校生の自転車が通る。れんぎょうの森が黄色く染まった日、ぼんやりと立っている男の子を見た事もあった。森がなくなったりしないよう、前の日に僕は市に届け出ておいた。
 空には満月、地には一面の黄色い森が広がっている。あのときのように僕は自転車で雑木林の中に入っていく。あのときと同じ、静かですそを少しひねった花が、幾重にも重なって僕を迎える。足元で敷き藁がかさこそという。
 黄色いワンピースが花の間にあった。あのときのようにこちらを見る。
(待ってた)
 かぼそい声でそう言って、彼女は目を伏せた。

 

    

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