2.ルイ公爵とキール・デリ

 

 キール・デリが旅の途中に立ち寄ったところに、鬱蒼とした森に囲まれた、古い山城の跡がある。ここは吸血鬼伝説なんかがあるところで、いつもの彼なら絶対に近寄りなんかしない。そんなところにわざわざ出向いて行ったのには、もちろんちゃんとした訳があるに決まっている。
「なんだって?」
 とんきょうな声で、キール・デリは楽屋で依頼主のコンサートマスターを問い詰めていた。このコンサートマスターは繊細で気の弱そうなタイプで、予想通りややおどおどした様子で彼にこう言った。
「あの、うちは見て分かるように貧乏楽団なんです。熱を出したヴァイオリニストの代役を引き受けてくれたことには非常に感謝していますが、これ以上の金額はちょっと……すみません」
 キール・デリにとっては久しぶりのステージ演奏だった。ソリストがいないというのでこんなへんぴなところまで来たのだが、まさか交通費も出してもらえない事態になるとは、まったく思ってもみないことだった。
「でも、これだけじゃなあ……」
 コンサートマスターは心底すまなそうな顔になった。キール・デリの腕前は寝込んだヴァイオリニストよりもはるかに上で、そのおかげで今までで一番お客が入ったからである。しかしそれでも借りた会場への支払いがやっとできる程度であった。
「山登りはしたことありますか」
 何を思ったのか、コンサートマスターはこんなことを言い出した。
「この町の南側に、城跡があるでしょう」
「ああ。そういやあったな」
「あそこには昔、この辺一帯を治めていた領主がいて、その財宝がお城にあるんです。もしなんだったらそれを……」
「取って来てくれるのか」
 沈黙があった。コンサートマスターは楽屋の壁にかけられた複製の人物画と、そのとなりの山城の写真をじっと見比べてから言った。
「取って来て下さい。あの、ちゃんとありますから大丈夫ですよ。うちも借金が凄くなると時々世話になってるんです。城主は吸血鬼だったって伝説がありますが、ただの伝説だし、今はもう誰もいませんから大丈夫ですよ」
 キール・デリがなおも黙っていると、コンサートマスターはこう続けた。
「当時はそりゃあもう豪勢なものだったらしいですよ。倉には財宝があふれていて、庭には遠くから取り寄せた珍しい草花が植えられてたって話です。錬金術師を三人も雇っていて、そいつらが金銀を作り出してたって噂があるくらいで」
「分かったよ」
 ため息をつき、キール・デリは城への地図を書いてもらった。赤字を解消するためには、どうも山登りをしなくてはならないようであった。

 足元はスニーカーだから問題はなかったが、問題は背中のリュックサックである。途中まで郵便配達車に運んできてもらったものの、いいかげん歩くとだんだん背中に重みがのしかかってきた。
「やまははじめてだぞ、きーる」
「そうかい」
 原因は彼の手荷物の三分の一を占める黒うさぎのブラッキィにある。ブラッキィは彼のリュックに潜り込み、長い耳を振ってのんびりと風景を満喫していた。
「きーる、どこいくんだ」
 半分以上も登ってしまってから、どこへ行くもないものである。疲れもあるのだろう、軽いめまいを感じながら彼はブラッキィに答えた。
「山頂の城跡だ」
「えんそうかいにいくのか。すごいな、きーる。えんそうかいに行くとゆうれいが出るんだぞ」
 またどこかで何か変な知識を仕入れてきたらしい。そもそもこの山歩きの原因となったコンサートだって演奏会のはずだが、ブラッキィはそのことについては何とも言ってなかったのである。
「何の幽霊だよ」
「えんそうかいのゆうれいだ」
 胸をはってブラッキィは答えた。キール・デリは背中のリュックをそこらの草むらに投げてしまおうかと一瞬思ったが、とりあえず思い直し、城跡に続く細い山道に入っていった。

 山道を抜けると城門がある。キール・デリはその崩れかけた門の前でしばらくぼけっと突っ立っていた。
「あのリボンはなんだ、きーる」 
 正しくは幅広の黄色い工事用テープであるが、風にはためいてラッピング用のリボンのように見えなくもない。それがぐるぐると幾重にも、古びた石の城門に巻かれてあるのである。
「倒壊の危険あり。関係者以外立入禁止。国土測量庁……ってなんだよこれ」
 彼はテープに下げられた札の文章を読み上げた。
 もしかしたらいっぱい食わされたのかもしれない。あのにぶそうなコンサートマスターがこんなところまで来るとは思えなかった。単なる聞いた話を、それらしく彼に言っただけの可能性もある。
 少々後悔しつつ、それでもキール・デリは壊れた石壁の隙間から中に入った。かさばる楽器のケースをぶつけないようにしながら、石壁から草薮の中に抜ける。そのまままっすぐに進むと荒れた庭園の中に出た。
 広大な敷地の中をうろうろしながら、コンサートマスターから聞いた地下室の場所を探す。くだんのコンサートマスターは、城の右にある小さな扉から地下に下りられると彼に言った。そこには雑多ながらくたが置かれていて、よく選んでくればふもとの都市でいくらかの金に替えられるのだと言う。
「こう暗くっちゃなんにも見えないな」
 リュックから取り出した懐中電灯を振りまわし、転びかけながら、彼は階段を下りて地下室に入った。ブラッキィはリュックの中で静かにしている。真っ暗なので身動きが取れないのだ。
 目についた扉を開け、さらにそこにあった木箱に手を突っ込んで掻き回す。錆びた鉄屑様のものを引きずり出し、かがみ込んでその奥から何か細長いものを引っ張り出した。
「へえ……」
 あのコンサートマスターは嘘つきではなかったようだ。
 出てきたのは金細工を施された一振りの剣で、鞘には凝った透かし彫りが施され、柄には巨大なルビーがはめ込まれていた。本物かどうかはわからなかったが、売ればそれなりの金額になるだろう。今回の彼のギャラと交通費と宿代くらいは楽に出そうな感じである。
 彼はその場から立ち上がり、さっさと帰ることにした。用は済んだし、こんなところにいつまでもいたくはない。持ってきた懐中電灯は意外と明るく、戦利品の細かい部分までがよく見えた。
 右手にヴァイオリンをぶら下げ、左手で金張りの大きな剣を抱えると、キール・デリは出入り口のほうを向いた。両手が塞がってしまったが、入ってきた時にドアは閉めなかったから何も問題ないはずだった。懐中電灯だけは正面を向くように、左側に剣と一緒に抱え込んでいる。背中のブラッキィはふんふんと鼻息だけが聞こえていた。
「おい。お前はなんだ」
 開いているはずの扉が閉まっていた。
 懐中電灯がぼんやりと照らし出した先には、細身で若い男が立っている。どこかで見たような顔だったが思い出せなかった。年恰好は彼と同じくらいであろう。だが、薄暗いためか異様な迫力があった。
 その男は彼の持っている剣を見て言った。
「それをどうする気だ」
 正直に答えられる空気ではない。おもてには出ていなかったが、明らかに相手は怒っていた。
「い、いや、宝捜しツアーなんだ」
 こんなときに冗談でまぎらわそうというのは間違いである。そんなに世の中は甘くはない。
「そうか。じゃあ見つかっただろうから返してもらおう。そいつは俺のだからな」
 男はつかつかと歩み寄ってくると、あっという間に剣を奪い去った。同時にキール・デリの足を払い、床に転がった彼の喉元にその剣の切っ先をさしつけた。
「最近泥棒が出ると思ったらお前だったんだな。覚悟しやがれ」
「俺じゃない。俺は今日初めてここにきたんだ」
「嘘をつくな! 適当なこと抜かすんじゃねえ!」
 キール・デリが言っても火に油を注ぐだけであった。相手は長い剣を振り上げ、振り下ろそうとする。
 一触即発のその時に、暗がりから声が聞こえた。
「おまえ、ここのかんりにんさんか。ひとをけとばすのはしつれいだぞ」
 とことことやってきたのを見れば、先ほどリュックから投げ出されたブラッキィである。キール・デリは今の状況も忘れ、思わずこう言ってしまった。
「ブラッキィ、おい、あっちいってろ。危ないぞ」
「いたかったぞ。おまえ、おれにあやまれ」
 黒うさぎはそんなことにお構いなく、剣を振りまわしている若い男の前まで来ると後ろ足で立ち上がり、鼻を鳴らして抗議した。
「……なんだこりゃ」
 気勢をそがれた男はキール・デリと黒うさぎを交互に見比べ、それから口を開いた。
「お前達はいったいなんだ? 俺の城で何をしている?」
「俺の城? あんたいったい誰だ」
 相手は横目で彼のことを見た。完全にキール・デリのことを見下した表情である。
「俺はこの城の主、ルイ・L・オラディアだ」
 かの高名な吸血鬼、ルイ公爵の登場である。

 この人物に関しては噂ばかりであまり詳しい話は伝わっていない。「粛清」を逃れた人造亜種とも、何百年もこの城で眠っていた本物の吸血鬼とも言われているが、彼が人血を主食としていたのは確かなようだ。この地方では数年に一人か二人、山で行方不明になって帰ってこない者がいたからである。
 ただこの人物は本物であった可能性が高い。雑菌だらけの生き血などを吸って健康でいるのは、性質を模して作られただけの人造亜種には少々無理があるからだ。しかし本物の吸血鬼とは何かというと、それもいまだよく分からないのが実情である。
「お前達はいったいなんだ」
 薄暗くて埃だらけの地下室で、よく切れそうな剣先で脅されながら、キール・デリとブラッキィは機嫌の悪い金髪の吸血鬼に詰問されていた。
「おれ、ぶらっきぃ」
「ウサギの名前なんか聞いてねえ。黙ってろ」
 ブラッキィの発言を一蹴すると、ルイ公爵の攻撃はキール・デリに移った。
「てめえはなんだ」
「きーる、きーる・でりだ」
「ウサギは黙ってろ」
 ブラッキィは黙らなかった。
「おまえこそなんだ。はじめてあうのにうさぎよばわりはしつれいだぞ」
 もうブラッキィにはかまわないことに決めたらしい。ルイ公爵はふんと鼻を鳴らし、床に投げてあるヴァイオリンをつま先でこづいた。
「よく見りゃヴァイオリン弾きじゃねえか。なんでそんな奴が俺の剣を盗もうとする」
 やっと釈明の機会がまわってきたので、キール・デリはこれまでのいきさつを一息にまくしたてた。相手は話を聞き終わると剣を下ろし、腕組みをして彼を意地の悪い顔で見た。
 やっとキール・デリはこの人物をどこで見たのか思い出した。気の弱いコンサートマスターの隣にあった肖像画がこの人物で、そこにはしっかりとさっき相手が名乗ったとおりの名前が書かれてあった。
「ちょっとついて来い、ヴァイオリン弾き。お前にやってもらいたいことがある」
 もはや嫌だのなんだの言える雰囲気ではない。キール・デリは楽器を拾い、じたばたするブラッキィをリュックに詰め込むと、おっかなびっくり吸血鬼の後をついて地下室を出ていった。

 案内されたのは城の中央にある吹き抜けの巨大なホールである。そのホールのど真ん中に、キール・デリは楽器を持って立っていた。もちろんそう命令されたからである。ブラッキィはやかましいので吸血鬼の不興を買い、その辺にあった木の箱に突っ込まれて庭に放り出されていた。
 相手は笑顔で言ったものである。
「難しいことじゃない。一晩ここで何か弾いていてくれりゃいい。そうしたら町に帰してやる。少し駄賃もくれてやるよ。悪くないだろ?」
 この話には命があったら、という前置きが省略されているのは言うまでもない。日暮れと同時に音楽スタートということは、日が暮れたら何かが出るのであろう。それも吸血鬼が嫌がるような何かが、である。
 すっかり憂鬱になりながらも、キール・デリは窓から差し込む夕日を背に、楽器の調整を始めていた。先ほどトイレに行くふりをしてここから逃げ出そうとしたのだが、そんなことでは相手はだまされなかった。他にも腹が痛いとか泣き落としとかいろいろ試してみたのだが「そうか、そんなに死にたいのか」と剣を振りまわしていわれ、すべて徒労に終わっていた。
 調整が終わった頃、日が落ちた。覚悟を決めて彼は最初の曲を弾き出した。いつも練習曲に使っている、短い、アップテンポな流行曲である。それが終わると今度はゆっくりとした、しかし長めのワルツに変えた。
 曲調を変えつつ次々と演奏していくが、まだ何も起こらない。何事もなく夜明けを迎えられるかもしれない、そんなことをキール・デリが思ったその時だった。
 がらんどうのホールに人影が現れた。無骨な、甲冑をまとった武人の姿をしている。年もまだ若いようだ。その男は楽器を弾きつづけるキール・デリのことを鋭い目で睨むと、不意にその場から消えてしまった。
 武人の幽霊の後、今度は子供が現れた。茶色い髪をした十二、三の少年で高貴な身なりをしていたが、顔色でこの世の者でないことが見てとれた。その少年も彼のほうを見てかき消えた。
 こんな調子で次から次へと幽霊がキール・デリの前に現れては消えていった。若い者、年寄り、卑賎の者、貴人、男、女と様々だったが、どれもがみな一様に、ヴァイオリンを弾く彼の顔を見て消えていく。キール・デリ自身はなるべくそちらを見ないようにして、ただ楽器を奏でることに集中するようにしていた。
 どれほど過ぎたのか分からなかったが、幽霊の群れが途切れたことにキール・デリは気づいた。もう少し踏ん張れば夜明けがくる。彼はそう思い、気分を変えようと荘重なものから軽快なバレエ曲に切り替えた。
 またホールに幽霊が現れた。今度は三人で、いずれも重苦しいローブをまとい、足を引きずりながら歩いてくる。あのコンサートマスターから聞いた、お抱え錬金術師であろうと彼は見当をつけた。
 三人は楽器を弾く彼の前に来ると立ち止まった。いつもならここですっと消えてしまうのだが、今度はなかなか消えないでいる。そうこうしているうちにもう一人現れた。
 四人目は髪を高く結い上げた貴婦人である。美しい顔立ちをしていたが、ひどく冷たい印象があった。貴婦人は従者のように三人をしたがえると、楽器を弾き続ける彼のほうに近寄ってきた。
「あら」
 そうして華やかに笑った。
「ルイ坊やじゃないのね」
 赤い唇から尖った牙がこぼれた。キール・デリの手が一瞬止まる。しかしすぐに曲を再開させた。
「あの子はどこなのかしら。あなた、知らない?」
 キール・デリにそうたずねる。
「楽士を身代わりを立てるなんて、いかにもあの子のやりそうなことね。私の好みをよく知っているわ」
 話をしたら終わりな気がして、彼は黙ってヴァイオリンを弾いていた。貴婦人はそんな彼の様子を見て、そうなの、とつぶやいた。
「知らないならしょうがないわね」
 同時に、後ろにひかえていたローブ姿のうちの一人が彼に襲いかかった。キール・デリは楽器を楯にし、とっさにその一撃を受け止めた。が、ここまでである。後の二人が躍りでて、姿勢を崩した彼ののどをかき切ろうとした。
 その時、ローブ姿の男が真っ二つになった。息を飲む彼の前で、さらにもう一人、続いてもう一人が倒れ込んだ。気づけばさっきの三人の代わりに、長い剣を構えたこの城の主が、貴婦人と対峙して立っていた。
「夜ごとの怪異はやっぱりお前だったんだな」
 貴婦人は嬉しそうに剣を構える相手を見た。先ほどの冷たい印象とは打って変わって、少女めいた表情になる。
「お待ち申し上げておりました。まさか、約束をお忘れではありませんわね」
 貴婦人の両手に野花で作った冠が現れた。彼女はそれを高々と掲げ、こう言い放った。
「わたくしと一緒に来てくださいますわね。わたくしはあなたに永遠を差し上げたのですから。もう駄々をこねるのはおよし下さいませ」
 「先に約束を破ったのはお前だ、リリア。城の人間すべてを食い尽くしてまだ足りないか。国が傾くほどの贅沢をし尽くして、それでもまだ不足だと言うか」
「そんなこと」
 女吸血鬼はうっとりするような微笑みを浮かべた。
「なんてこともないことです。それが嫌なら公爵様が命を惜しんで、わたくしに声を掛けたりなさらなければよかったのですわ。わたくしは、貴方にならと思って永遠をお分けしたのですから」
「リリア!」
 女吸血鬼がひょいと手に持った小石を投げた。それは隙を窺って逃げようとしていたキール・デリのすぐ横を飛びはね、石の床をえぐりとって転がっていった。
「手始めにあの若者を下さいまし」
 リリアの視線はキール・デリに注がれている。
「あれだけの幻覚を見せられてまだ正気でいるなんて、久々にみどころのある若者です。あれはわたくしのために用意してくださったのでしょう」
 違うともそうだとも、この城の主からはいらえがない。
「やっと公爵様がわたくしのことを思い出してくださったと思って、うきうきしながら出てきてしまいましたわ」
 そうか、と相手は言った。
「なぜ生きている? 俺がその首をはねたはずなのに。いったいどうやってあの暗がりから這い出てきた?」
「そうですわね」
 女の目が少し遠くを見るようになる。そしてふいに殺気を帯びた。
「わたくしは貴方さえいればよいのです。他はどうでもいいこと。一緒に来てさえいただければ、わたくしを殺そうとしたことも水に流してさしあげます」
 彼女はふふ、と可愛らしく笑った。吸血鬼公爵の方は気圧され、剣を構えたまま一歩下がった。
「いかがなさいますか、公爵様」
 答えが出るまでしばらくの間があった。
「もう戻れん。分かるな、リリア」
 女はため息をつき、昂然と顔を上げた。
「そういえばお答えしていませんでしたわ。墓泥棒もたまには役に立つものです」
 女の手に先細の短剣が出現する。
 キール・デリ、吸血鬼公爵、玲瓏な貴婦人の三人は、ただその場に凍りつくようにしてそれぞれの顔を睨みすえることとなった。

 三者三様、身動きも取れないままに、どれほどの時間がたったことだろうか。一番立場が弱いのはキール・デリで、彼はどうやってここから逃げ出そうかと必死に考えをめぐらせていた。
 うかつに動けば間違いなく女吸血鬼に殺される。しかもこの城の主が彼をかばってくれるという保証はない。互いの戦闘が始まった隙に逃げ出すという方法もなきにしもあらずだが、それとて巻き添えを食ってしまう公算のほうが大きい。
 そうしている間にも緊張は高まる一方である。キール・デリは女の顔から視線を動かすこともできずにいた。ほんの少しでも目をそらせば相手は間違いなく襲いかかってこよう。
 リリアはまっすぐ吸血鬼公爵のことを見ている。彼が動けば手に持った短剣をキール・デリに正確に投げつける。しかも相手の攻撃を避けながら、だ。彼女にはそれだけの動きができた。
 ルイ公爵も彼女のことを見ている。だがなかなか斬り込むことができない。すべてかわされてしまうのが分かっているからだった。哀れなヴァイオリン弾きのことが頭にあるかどうかは定かでない。
 何かが床に落ちる音がした。
 彼女は見もせずに短剣をキール・デリに向かって放った。そして振り下ろされる長い刀身を踊るように避け、相手のふところ近くまで潜り込んでいった。
 吸血鬼公爵のほうは飛びのいたが、すぐ間合いを詰められて思うように攻撃ができないでいる。優雅に見える一進一退を繰り返しつつも、確実に彼女は相手の吸血鬼公爵を追いつめていた。
 白くて細い指が、相手の男ののどにかかる。美しく吊り上がった目が、正面から獲物の顔を見つめた。
「つかまえたわ、ルイ坊や」
 女は広い肩に柔らかく頭を預け、横を向いて獰猛に、細いが筋肉の浮き出た首筋を食いちぎろうとした。
 ひゅう、と風が鳴って、細長いものが女の顔めがけて飛んできた。
 かつん、というのはそれが額に当たった音だった。キール・デリが投げたヴァイオリンの弓はほんのわずか、女吸血鬼の気をそらせた。
(……なぜ)
 短剣はキール・デリの左胸に刺さっている。ただし、先ほどから胴体に引っ掛かったままになっていた楽器の肩当てに邪魔されて、身体の奥深くまでは届かないでいた。
 その一瞬に吸血鬼公爵は女の首をはねた。長い夜が終わった瞬間でもあった。

 この出来事の詳細を、キール・デリは山を下りたのちに駅の掲示板で知ることとなる。そこには「ウェルカム」の文字とともに、この地方を治めた領主の悲恋とその結末が、伝説として記述されていた。
「きーる。おそいじゃないか」
 明け方、やっとの思いで荒れ城と吸血鬼公爵に別れを告げた彼を待っていたのは、ブラッキィの小言だった。
「生きてたのか」
「なんだそれは」
 ぶーぶーと鼻を鳴らし、ブラッキィは花畑の真ん中で文句を言いたてた。
「木箱がかたくてかじるのがたいへんだったんだ。おれのくろうもすこしは分かれ」
 包帯を巻いたキール・デリは苦笑するしかない。
「そうか、大変だったな。そういや演奏会の幽霊が出たぞ」
 そうして背中のリュックを地面に下ろした。
「えんそうかいのゆうれい? なんだそれは。きーる、おまえなにかへんなもの食べたか」
 ブラッキィのことだからこんなものであろう。しかし彼は怒る気にもなれなかった。
「入れよ。次の町にいくぞ」
 黒うさぎが定位置に収まると、キール・デリはまたリュックを担ぎ上げた。
「つぎのまち? どこだ?」
「アジョワンだ。腕のいい職人がいるんだとさ。紹介状をもらったよ」
 そう言って空の楽器ケースと封蝋のされた書簡を見せる。
「金もあるし、のんびり行こう。昼までにはふもとにつくだろうよ」
 そうしてキール・デリは、ほの明るくなってきた山道を下っていった。

  

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