ハバネロ通りの音楽少年

 キール・デリが幼少の頃の話をしよう。
 彼がいわば特殊な出自であることは、今の我々にはよく分かっていることであるが、この時代にはそういった種類の人間がいるということ自体、あまり世間に知られてなかった。だから学者であった彼の養父は、定住先を探すのにもずいぶんと苦労したようだ。あまりに人が多過ぎるところもよくないし、かといってまったくの僻地では子供がどんな風に育ってしまうか分からない。環境というのはかなりの影響を生物に及ぼす。それはありとあらゆる生き物に言えることだ。
 彼の養父は人間を育てているつもりだったのだろう。それは正しく、キール・デリは人間として育った。泣き、笑い、豊かに情感を表す子供になった。彼が試験管で生まれた他の者と違ったのは、まさにその一点に尽きた。

 彼らが引っ越して来たのは、繁華街のそばにある小さなアパートだった。小学校に上がるか上がらないかくらいの少年の手を引いて、叔父という人間が近所に挨拶にまわった。
 カンの強い、ちょっと変わった子供だった。裏手のバーに黙って入り込み、客に混じってジャズピアノを聞いていた。ストリートで演奏するミュージシャンの横でリズムを取って空き缶を叩き、大通りで大道芸人の演じるゼンマイ人形を見て、後ろで同じように動いて観客の笑いを誘った。
「エンライさん、これ」
 少年のせいですっかり顔なじみになってしまったバーのママが、ある日、保護者である叔父に大きな荷物を持ってきた。エンライと呼ばれた男は、その包みを開けて驚いた。
「お客さんが持ってきたんだよ。あんたんとこの子供にって」
 中には小ぶりなバイオリンが入っていた。どうしてこんなものを、と言う彼に、バーのママは笑って答えた。
「あの子、学校に行ってないだろう」
「ああ」
「どうして行かせないんだい」
 恥ずかしいが金がないんだ、とエンライは言った。事実、彼の稼ぎは子供と二人で食べていけるほどしかなかった。ママはやっぱりね、と言ってこう続けた。
「お客さんに音楽学校の先生をやっている人がいてね、あの子を育てたいっていうんだよ。よく知らないけど音楽の素質があるって言ってて、半分ならお金も出せるって」
 エンライはびっくりして話を聞いていた。
「できたら手元におきたいって話なんだけど、あんたが可愛がっているのを知ってるからねえ。それは断っておいたよ」
 そうかい、とエンライはほっとしたように言った。
「それに訳ありなんだろ、あの子。逃げた奥さんの子供かい」
「違う。そんなんじゃない。あの子は違うんだ」
 むきになって言う彼に、バーのママは大声で笑った。それから真面目な顔になり、こう彼に言った。
「事情は聞かないよ。でもここにいたんじゃ、子供の行く先なんかたかが知れてる。せっかくこんないい話が来たんだ。あたしも少し出すから、あの子に楽器を習わせたらどうだい」
 エンライは顔をしかめ、少し考えさせてくれといった。気が済むまで考えておくれよ、と
ママはその様子を見て答えた。

 少年は学校に行くことになった。エンライは制服である黒の上下を揃え、細いエンジのリボンを少年の襟に飾った。学費は半分をママの貯金でまかない、残りを少年を見出した音楽学校が持つことになった。
「いいか、ちゃんと名前を言って、よろしくお願いします、って言うんだぞ」
 素直に少年がうなずく。
 ややきかん気なところはあったが、どこから見てもごく普通の子供だった。エンライは少年の全身をよく眺めて、おかしなところはないか確認をした。
 入学する学科はバイオリンで、それは音楽学校の方が一方的に決めてきた。それ以外なら正規の学費でということだったが、エンライもバーのママも、入学する当人ですらそれ以外に何があるのか知らなかったので、その点については何も問題はなかった。
「あいさつの練習をするか」
「うん」
 少年が大きな声を張り上げた。
「キール・デリです。よろしくおねがいします」
 たどたどしい言葉と、最後に頭をぴょこんと下げた姿が微笑ましかった。こうして少年は、バイオリンを習うことになった。

 少年は優秀だった。あきれるほどのスピードで楽器の扱い方を覚え、教師が根負けするほど質問し、一度聞いた音とリズムは絶対に忘れなかった。半年に一度開かれる校内のコンクールでは上級生を押さえ常にトップであり、音階の狂いは八分の一音でも聞き分ける耳を持っていた。
 同時に問題の多い生徒でもあった。生徒のほとんどを占める良家の子弟と、毎日のように喧嘩をして帰ってきた。服装の抜き打ち検査を趣味にする生徒指導教諭に食ってかかり、勝手に授業を抜け出して二人前の昼飯を食べ、校舎の屋根によじ登って墜落しかけた。
 二年目の初夏に、エンライは学年主任の教師に呼び出された。
「キール君のことですが」
 真夏のような暑さの日に、彼はきつい感じの女教師と向かい合って座っていた。手を掛け、きちんと整えられた校庭の風景が、ガラス窓の外に広がっていた。
「今度は何をしましたか」
 今年に入ってもう何度目になるのか分からなかった。最初は顔も上げられなかったが、こうたびたびとなると女教師の顔も見慣れてしまっていて、もはや何とも思わなかった。
 この、ハイミスの学年主任はため息をついた。そしてこう言った。
「ご両親が揃っていないということは分かってますが」
 この教師はいつもこう前置きするのだ。エンライはまたかと思ったが、口には出さなかった。
「キール君は優秀です。これほど優秀な生徒は今までに見たことがありません」
 持って回った言い方に、エンライは嫌な予感がした。
「だからと言って街頭に立って小銭を稼ぐのは、決して褒められたことではありません」
「……は?」
 彼には相手の言っていることがよく掴めなかった。ぽかんとしている彼に、女教師は厳しい口ぶりで詰め寄った。
「そちらのお宅があまり裕福でないことは、私どももよく理解しているつもりです。しかし、由緒ある我が校の生徒が、街角で楽器をひいてテラ銭を投げてもらっているなんて、絶対にあってはならないことです」
「あいつがそんなことを?」
 エンライはあっけに取られ、それからその知恵に感心してしまった。実はママの店でも頼まれて何度か弾かせていたのだが、外のほうが実入りがいいことに気づいたのだろう。
 しかしそんなことを言ったら、この女教師は卒倒してしまうかもしれなかった。
「とにかく」
 この親にしてこの子あり、といった風情で、女教師はエンライのことを見た。
「OBから連絡がありました。うちの制服を着てバイオリンを持ち、花街のどまんなかに立っている少年がいると」
「ははあ」
 エンライはやっと納得した。これではクレームが来てもしょうがない。
「今度やりましたら退学です。正直言いまして、私どもにはあのような生徒を教える義務はありません」
 さすがにエンライはむっとした。学年主任はここぞとばかりにうっぷんをぶちまけた。
「キール君の入学は校長、理事長の意向ではありますけれども、他の生徒たちへの悪影響が大きすぎます。我が校の伝統と誇りを傷つけるような行動は慎むよう、お父様からもきつく叱っていただきたいのです」
「私は父親ではありません」
 エンライはあてつけのようにこう言った。
「我が家にはそんなゆとりはありませんから、小遣い稼ぎの方法を自分で考え出したのはいいことです。ただちょっとやり方がまずいようだ。よく言っておきましょう」
 女教師は心底いやそうな顔になった。
 自分のところには、貧民街の子供など通わせたくないというのがありありと透けて見えた。エンライはのらりくらりとその場をごまかし、少年には、街中では制服で楽器を弾くなと言ったきりで終わりにしてしまった。

 結局、少年は十二才で音楽学校を退学になった。彼の素行にも多いに問題があったのだが、理事長が変わり、経営方針が変更になったことが直接の原因だった。才能があるとはいえ、問題の多い貧民窟の子供に余計な金をかけるのは不適当だと判断されたのである。エンライは制服を古着屋に売り、その金で新しい楽器を買ってやった。
 少年の稽古場は、校内のホールからママの店にあるグランドピアノの真横になった。最近病気がちになった老齢のピアニストの代わりに、そこで客のリクエストに答えるのだ。
「なんだよ、ガキか」
「取りあえず弾いてみろ。ヘタクソだったら呑み代は払わねえぞ」
 子供だからと言って酒場の酔客は容赦しない。答えられなければ罵声が飛び、上手に弾けても面白くなければ苦情が出た。一見の客にとんでもなく難しい古典をリクエストされることもあれば、聞いたこともない異国の曲を告げられることもあった。
 悪戦苦闘し、口の悪い常連客に半べそをかきながら、少年は負けん気の強さだけでその仕事を三年半勤め上げた。やがてエンライの収入をはるかに上回るほどの稼ぎと、アレンジを加えた数百ものスコアを手に入れたころ、少年キール・デリは、自分が街中でかなりの評判になっていることを知った。

 エンライの葬式は身内だけでひっそりと行われた。自分が養っていた少年が一人前になったのを見届けたかのように、彼はキール・デリが十六になった年に亡くなった。
 葬式で泣きもしなかった彼を見て、周囲はさまざまなことを囁いていた。本人がそれを知っていたかどうかは定かでない。バーのママはごたごたが落ち着いた頃を見計らい、彼にこう切り出した。
「あんたのおかげでウチはずいぶん繁盛したよ」
 ふうん、と彼は手にした紙を見ながら言った。それはとある有名オーケストラの楽団員募集のチラシで、厳しい審査と世界最高レベルの演奏が売り物だった。実際、ここの審査を通れば世界中どこでも通用するとさえ言われていたが、あまりの厳しさに常時欠員が出ているところでもあった。
 彼の養父はどこから見つけてきたのか、そんなものを自分の荷物にしまい込んでいた。キール・デリは遺品を整理していてそれを発見したのだが、エンライがヴァイオリニスト募集に丸をつけているのを見て、思わず笑い出してしまった。
 ママが突然何を言い出したのか見当がつかず、十六才のキール・デリはチラシに目を落としたまま、少しとまどっていた。
「あたしも年だし、もうこの店もたたもうかと思ってね。これだけ貯金があればしばらくのんびり暮らしていけるよ」
「辞めちゃうのかよ」
 思わず彼は顔を上げた。実はもう店の買い手もついてるんだとママは言った。
「店をたたんで、農場をやってる兄のところにでも行こうと思ってね。前々から手伝ってくれとは言われてたんだけど、なかなか踏ん切りがつかなくてねえ。でもエンライさんももういないし、あんたもいい年だ。そろそろいいかと思ってさ」
 キール・デリはしばらく呆然とママのことを見つめていた。
「俺は? 俺は連れて行ってくれないのかよ」
 不安そうな彼の言葉をママは豪快に笑い飛ばした。そして真面目な口調で言った。
「ばかなことを言ってないでしっかりしな。いつまでも人に頼ってちゃだめさね。いい機会だからここを出て、よく世間を見てきてごらん」
 ママは預かり物だと言って、銀色のプレートが下がったネックレスを取り出した。軍隊で使っている認識票のようなデザインの代物だった。
「エンライさんが持ってたんだ。書いてある文章をよく見な」
 キール・デリはプレートを受け取り、その文面を読んだ。刻印されたほんの数行の文字を読む間に、彼の顔色が変わっていくのが分かった。
「コード#5。プロジェクト責任者、エンライ・コーダ。異種化NRA配合比率0.095。性別、雄。試作品愛称名キール」
 試作品? プロジェクト? と彼は小声で繰り返した。バーのママはそっと気遣わしげに、その様子を見ていた。
「昔、聞いたことがあるよ。ある目的のために、施設で特別につくられる人間がいるってね。多分エンライさんはそういう所から、あんたを連れてやってきたんだ」
「ある目的って?」
 自分に親がいないことは分かっていた。エンライが自分の両親の話をしないのも、とうの昔に死んだか、何か事情があって伏せていたのだとばかり思っていた。彼はそれでいいことにして、一生を誰かの捨て子で過ごすつもりでいたのだった。
「あたしが知るかい。けれどエンライさんは、ここに来る前は大会社に勤めてたって聞いたよ。そこで生物の研究をしてたってね」
 エンライは何のつもりで自分を養っていたのだろう。キール・デリはプレートを持ったままぼんやりと考えていた。
 どうして我が子のように育てたのだろう。なぜ学校になどやったのだろう。彼が音楽で稼げるようになった時、エンライはとても喜んだ。これで一生食いっぱぐれないな、そうとも言った。それはなぜだったのだろう。彼は銀色に光るプレートを見つめて、穏やかで理知的なエンライの顔を思い浮かべた。
「俺は、何なんだい」
「それはあんたが決めることさね」
 バーのママはこともなげに答えた。
「どこで生まれたにしろ、エンライさんはあんたを自分の子供として育てたんだ。それが一番いいと思ったんだよ」
 しばらくの沈黙ののち、彼はこう言った。
「このプレート、貰えるかな」
 構わないよ、とバーのママは言った。彼はもう一度刻まれた文面をよく見て、プレートを首にかけた。
「俺は、俺だよな」
 そうだとも、とママは言った。キール・デリは少し考えて、さっき見ていたチラシを引っつかみ、それからそこに置いてあった自分のバイオリンを横目で見た。
「俺、このシャトーブリューン・フィルの審査を受けてみるよ」
「そうかい」
 ママはそれ以上言わなかった。
「だから農場には行かない」
 高らかに、明らかに虚勢を張って彼は宣言した。
「すげえ有名になって、誰にも文句がつけられないようになってやる。エンライのクソ親父が俺を育てたことも、学校に行ってバイオリンを習ったことも、絶対に、誰にも後悔させないようになってやるんだ。こんなものがあるんだったら」
 キール・デリは首にかけたプレートをつまみあげた。
「俺はきっとすげえ奴になれるはずだから」
 彼はその日の晩、住み慣れた街を離れた。バーのママは路地の奥からずっと彼を見送っていたと言う。


 この話はこれで終わる。彼は行った先のシャトーブリューン・フィルで予想通りひと悶着を起こすのだが、長くなるのでそれはまた次の機会にしたいと思う。

 

   

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