ツイン・ビオローニの話

 キール・デリがとある旧い都市を流して歩いていた時のことだ。
 その都市は昔から続く美しい町並みと魚を使った名物料理があるところで、それを目当ての観光客がすいぶんとたくさん訪れていた。町の中央には石畳が敷き詰められた広場もあって、いろんな種類の露店が立ち並び、その前では様々な大道芸が繰り広げられていたものだ。
 キール・デリも例外ではない。彼は広場の真ん中からちょっと離れた、ポップコーン売りやシュリンプフライの屋台の前で、いつもどおりに地面に開いたヴァイオリンケースを置き、ブラッキィを連れて演奏を行っていた。
 彼の前にだんだんと人だかりができはじめる。手をつないだまま立ち止まって聞き惚れるカップルがいる。いかにも観光客らしくウエストにカバンをくくりつけた老紳士がカメラを構え、ヴァイオリンを弾くキール・デリの写真を撮る。
 だがこの町ではあまり稼ぎはよくなかった。人は集まるのだが金が入らない。小銭を投げる者がいないのだ。他の大道芸人たちも同じようで、宿代の方が高くつくとぼやく者も多い。キール・デリも先日、今までの宿をキャンセルしてもうワンランク安いところに移ったばかりだった。
 ブラッキィだけは例外で、彼は次から次へと差し出される菜っ葉の束にころころと太ってきていた。すぐ近くにジューススタンドがあったからである。このスタンドは果物のほかに青菜を搾って飲ませるのが売りで、その菜っ葉を観光客が買い求めてブラッキィのところへ持ってくるのだった。
「ここはいいな。いつでもはらがいっぱいだ」
「そうかい」
 上機嫌なブラッキィに、キール・デリはぶっきらぼうに答えた。人波が切れた平日の昼下がりのことである。彼は演奏をやめ、一息入れようと楽器ケースの中を覗き込んだ。
 何も入っていなかった。これはゆゆしき事態である。いくら人通りが少ないとはいえ、稼ぎが皆無というのは久しぶりのことだった。
「どうした、きーる」
「うるさい」
 返事が冷たいのは仕方のないことだろう。ブラッキィの前には、さっきやってきた二人組の女性が置いて行った青菜が小山を作っていた。観光客はキール・デリには何も持ってこなかったから、彼は腹が空いていた。
「いるだけで何かもらえるんだからいいよな」
 キール・デリがぶちぶち言う。ブラッキィは口をもぐもぐさせながら言った。
「きーるだって人からなにかもらってるじゃないか。おればかり文句いうな」
 それはその通りなのだが、これほど差がついてしまうとキール・デリとしては面白くない。それ以前にこのままでは宿代もあやうい。
「はーっ」
 ブラッキィの菜っ葉を横取りしようかと考えたのは彼の名誉のために黙っておく。その代わりキール・デリはポケットをさぐるとなけなしの硬貨を握りしめ、後ろにあるシュリンプフライの屋台に歩いて行った。
「スモールひとつ」
「はいよ」
 威勢のいい返事とともに、細長い紙筒にみっしりと入った小エビの素揚げが差し出された。味付けは塩胡椒だけだが、ぷりぷりしたエビの食感で、この界隈の人気商品のひとつになっていた。
「スモールって言ったぞ」
 予定外の大きさにキール・デリが文句をつけると、彼とあまり年の変わらない屋台の主が笑った。
「そこで楽器を弾いてもらうとうちが儲かる」
 なるほど、キール・デリに金が入らないわけだ。彼の音楽にひかれてやってきた客はみんな、すぐ後ろでいいにおいを立てているシュリンプフライに気づき、そっちに小金を支払ってしまうのだった。
「なんてこった」
 彼は相手の好意をありがたく受け取ることにした。彼の胃がそのサイズでも構わないと訴えたからだ。
「それにあんた、今日稼ぎゼロだろ。うさぎは儲かってるのにな」
 後ろから見ていたらしい。屋台の主に現状を指摘され、キール・デリはぼやいた。
「まったくだよ。こんなに金が入らないのは初めてだ。人は結構いるのになあ」
「団体様ばかりだからさ」
 手際よく次のエビを調理しながら相手は言った。
「彼らは忙しいから一ヶ所にいつまでもいられない。だからあんたの音楽に耳を傾けるひまがないんだよ。もうちょっといてもらうとうちも助かるんだが」
 言っているそばから観光客の一群が目の前を通り過ぎた。数人は立ち止まってブラッキィをかまい、写真を撮って去った。次の一群もそうした。
「なるほどね」
 ほどよく塩味がきいたエビをかじりながらキール・デリは納得した。団体の最後には旅行会社の旗を持った添乗員がくっついており、ブラッキィの前で立ち止まる彼らをせきたてていったからである。
 団体客が去ると今度は若い男がひとり、ブラッキィの前でかがみこんだ。カメラは持っていない。あれこれとブラッキィに話しかけているが、ブラッキィは菜っ葉をかじるのに夢中のようだった。
 ブラッキィはケースに入ったヴァイオリンの上に乗っている。青菜も一緒にケースの上に置いてあるが、そこはキール・デリは気にしなかった。往来で演奏をしていれば、多少のキズや汚れには目をつぶらざるをえない。
「あんなところに楽器を置きっぱなしで大丈夫なのか」
 揚げたての小エビに塩を振りながら屋台の主が聞いた。
「意外と大丈夫だよ。ブラッキィが話しかけると逃げていくからな。びっくりするみたいだ」
「しゃべるのか、あのうさぎ」
 驚いた表情の相手に、キール・デリは当然のように答えた。
「ああ。途中で拾ったんだけどうるさくてさ。食ってばかりいるし」
 ブラッキィの前にいる男はまだ動こうとしない。ブラッキィを撫でようとして嫌がられ、そっぽを向かれている。そうしたかと思うとポケットから何かを取り出し、ブラッキィの前に置いた。ニンジンである。懐柔しようという魂胆らしい。下を向いているため顔はよく見えなかった。
「しつこいな」
「うさぎ好きなんだろうよ」
 とはいえキール・デリも少し心配になってきた。もういいかげん経つはずだが、男は一向にブラッキィの前から立ち去ろうとしない。
「きーる。泥棒だ。きーる」
 その時甲高い声でブラッキィが彼のことを呼んだ。くだんの男がブラッキィの下にあるヴァイオリンケースをガタガタやりだしたからである。まだエビが入っている紙筒を持ったまま、キール・デリは慌ててそちらに走っていった。
「おい待て!」
 ところが名前を聞いたとたん、ブラッキィの前にいた男がはじけたように立ち上がった。
「キール? もしかしてキール・デリか?」
 キール・デリのほうは勢いよく走ってきたのが、その手前でいきなり止まってしまった。まさか自分の名前を呼ばれるとは思っていなかったからである。
「俺だ、ザイナスだ。オーケストラで一緒だったザイナスだよ」
 キール・デリは立ち止まったまま、相手の顔をしみじみと眺めた。
「ザイナス? ザイナス・カミングか? 本当に?」
 エビなんか食べている場合ではない。彼はこぼれないように手に持った紙筒をくるくると巻いて蓋をし、ポケットにしまった。
「そうだよ。懐かしいなあ、キール」
「しりあいか、きーる?」
 ブラッキィが楽器ケースの上で立ち上がり、鼻をふんふんとさせながら彼に聞いた。ああ、とキール・デリは答えた。
「昔の友人だ。オーケストラにいたころのな」
 しかしなぜかキール・デリの顔色は冴えない。一方のザイナスは旧友に会えた喜びでいっぱいだった。
「久しぶりだなあ。ケースの名前でもしかして思ったんだが、本当にそうだったとはな。いろいろやってもウサギがどいてくれないんでつい触ってしまったが」
 なるほど、ブラッキィの柔毛に覆われた細い足の下には半分だけ彼の名前が見えていた。これを確認したくてザイナスはずっとここにいたらしい。
「食事なんか一緒にどうだ? いいところがあるんだ」
 キール・デリは瞬時に手持ちの残金を計算した。一食ぐらいなら大丈夫そうだった。それに彼は今日、小エビしか口にしていない。
「いいだろ? それとさ……」
 ザイナスはまた元通りに地面にかがみこみ、楽器ケースを見た。
「中見せろよ。今どんなの使ってるんだ? ちょっと弾かせてみろ」
 勝手にケースを開けようとする。相変わらずだった。キール・デリは笑い、ふっと穏やかな表情になった。
「そうだな。そうしよう。久しぶりだしな」
 いろんなことを気にする必要はなかった。古い友人とはそういうものだからだ。

 ブラッキィはむくれていた。どういうわけかブラッキィだけレストランに入ることが許されず、クロークの棚で高級ブティックの紙袋や皮製のカバンと並んでじっとしていなければいけなかったからである。いつもだったら彼はキール・デリと一緒にテーブルについているはずなのだ。
「きーるのやつ、あとでおこってやる」
 ブラッキィは籐のごついパンカゴの中でぶつくさ言った。
 もっともキール・デリもだいぶ交渉はしてみたのだ。しかし格式と「料理に毛が飛ぶ」という至極もっともな理由で、ブラッキィは使わない籐製のねかしカゴに入れられ、手荷物の棚に陳列されてしまったのである。「逃げ出さないから」という説得が効き、上部に蓋がされなかったのが救いだった。
 彼が何か言ったのを聞きつけて、受付の女子店員がカゴを覗いた。
「どうしたのかな。パンとか食べる?」
 クロワッサンのかけらが差し出された。ブラッキィはそれを食べてからキール・デリに文句を言うことにした。

 こちらは優雅な音楽が流れるレストランの店内である。キール・デリは花が飾られ、真っ白いクロスの掛かった窓際の特等席に案内されていた。差し向かいはさっきブラッキィに泥棒呼ばわりされた男、ザイナス・カミングである。
 ドーム型の天井ははるかな高みにあった。しっかりとしたテーブルクロスの生地には店のロゴマークが丁寧に織り出してある。床にはくるぶしまで埋まりそうな絨毯だ。壁はゴブランのクロス貼りであろう。
 まわりを見渡してキール・デリは言った。
「……俺、払えねえぞ」
「久しぶりだからおごるよ。さっきは悪かった」
 なんの悪気もなく、鷹揚な表情でザイナスは言った。キール・デリより四つか五つ、年上の感じである。しかしまとっているオーラには育ちの良さがにじみ出ていた。
「そうかい。……じゃ、ご馳走になるよ」
 この相手はいつもそうだったとキール・デリは思い返した。着ているものだって桁が二つどころか三つも四つも違うのだ。使っている楽器だってそうだ。
 だがそれが嫌味ではない。オーケストラに入りたてで、まだ少年だったキール・デリは彼について歩き、様々な本物というものを見せてもらった。高名な美術展のチケットをよこされたこともある。ザイナスが所有する膨大な音楽ソースのコレクションを目の当たりにし、文化財指定された古い別館に泊めてくれた。自宅の一部屋をヴァイオリンの保管につぶし、キール・デリはそこに置かれた逸品の数々に腰が抜けそうになった。
「シャトーブリューン・フィルを辞めたって聞いた。今なにしてんだ」
 ザイナスがキール・デリに聞いた。彼は回想をやめ、目の前にある食前酒のグラスを手に取った。
「あちこち回ってる。面白いよ」
 カボチャのスープと色とりどりの豆がたくさん載ったサラダが運ばれてくる。それからテーブルの中央に、カゴに盛られた小ぶりなパンが置かれた。パンは追加、おかわり自由である。
「ずっと路上で?」
「ああ。酒場とかね。オーケストラに来る前と同じさ」
 キール・デリはレタスの上にあるエジプト豆を追いかけながら答えた。ザイナスが店員を呼び、酒を注文する。まもなくフルボトルのワインが二本、グラスと共にテーブルの上に置かれた。
「河スズキの塩竃焼きでございます」
 スパイスを調合した塩の塊の中に魚が一匹まるごと埋まっていた。料理を運んできたウェイターが塊をナイフで切り、中から魚を取り出す。ついでに食べやすい大きさに切り分けていった。
「これが名物料理か」
「悪くないな」
 ボトルが空いてさらに二本追加になった。ソースがかかった肉のローストが出てくる。ナントカソースのナントカローストと言っていたが、二人はもう聞いていなかった。
「もう戻ってこないのか」
 突然にザイナスが言った。どこに、とキール・デリが聞く。
「オーケストラに……いや、音楽界に戻ってくる気はないのか。シャトーブリューンでなくても、一流オーケストラはたくさんあるぞ。お前の腕ならどこだって入れる。なんでドサ回りなんかしてるんだ」
「知らないのか」
 面倒くさそうにキール・デリが言った。だいぶ酒が回ってきていた。酔っていたから言えたとも言える。
「俺はシャトーブリューンを追い出された。こいつのせいでね」
 ジャラ、と音を立ててキール・デリの襟元から一枚の金属片が引っ張り出された。首にかけたそれを外し、彼は友人に渡した。
「プレート持ちか!」
 ザイナスはそれを受け取り、キール・デリの顔を見た。酔いが吹っ飛んでしまっていた。

 プレート持ちは高級レストランには入れない。レストランの顧客が嫌がるからだ。一流ブティックも彼らに商品を売りはするがいい顔はしない。市民権のない者がそういった品物を持つことによって、自社のブランドイメージが下がることを嫌うからだ。
「同じなのにな」
 キール・デリが言った。
「俺もあんたも同じ楽器を弾いてメシを食っている。どう違う。どう違うんだ」
 ザイナスは返す言葉もない。彼の所属する上流階級ではプレート持ちは人ではないのだ。同じようにシャトーブリューン・フィルにも、壮絶と言っていい差別意識が存在する。
「知らなかった」
 しぼりだすようにザイナスは答えた。自分の前に運ばれてきた水を一口飲む。キール・デリも水に気づき、ぐいっと一気にあおった。
「俺は何者だ」
 ワインの追加はもうストップがかかっていた。ザイナスはもう一杯水を用意するよう、ウェイターに頼んだ。
「あいつら失礼だと思わないか。勝手に才能があるとか人のことを持ち上げておいて、プレート持ちだと分かるとぽい、だ。最低だよな」
 シャトーブリューン・フィルを追放されたということは、二度と世界的な大舞台に上がれないことを意味する。彼のようにセンセーショナルな出生ならばなおさらだ。キール・デリの言葉にあいまいにうなずきながらも、ザイナスは彼がシャトーブリューン・フィルに採用になった経緯を思い返していた。
 ヴァイオリン一つを抱えて、キール・デリはシャトーブリューン・フィルにやってきた。本来の募集数は一席、世界に名だたるオーケストラを従えて、迫力充分なソロもこなせるヴァイオリニスト一名だった。下馬評では当時天才ソリストと呼ばれていたザイナス・カミングが有力候補であり、そしてその通りザイナスが採用になった。
 しかしもう一人、まったく無名の若者が審査員の間で話題になった。それがキール・デリである。「荒っぽい」「技術的にはまだまだ」そう評されつつも「ザイナスとひけを取らぬ魅力ある音」「荒っぽいながら充分オーケストラで通用する」等のコメントがあり、結果としてこの回は二名採用という異例の事態となった。
「どうして最初に言わなかったんだ」
 普通は言わないだろう、そう思いつつもザイナスは彼に尋ねてみた。
「必要ないと思ってた」
 キール・デリはそう答えた。
「それまでどこの店も、どこの楽団もそんなことは聞かなかったし確認もしなかった。腕が確かかどうか、それしか確認しなかったからな。そんなことを気にしたのはシャトーブリューンだけだ」
 老支配人が近寄ってきてザイナスに耳打ちした。ザイナスは一枚のカードを取り出し、支配人が持参した伝票にサインをしてカードと一緒に持たせた。
「もう出よう。ウサギが待ちくたびれてる」
 ザイナスが立ち上がると同時に、クロークの女子店員が上着と手荷物を持ってきた。キール・デリもふらふらと席を立つ。
「車を用意してくれ」
 ザイナスとキール・デリが乗り込んだあとに荷物が押し込まれた。最後にパンカゴに入ったままのブラッキィが乗せられる。ブラッキィはパンくずで腹がいっぱいになって熟睡していた。
「寝てるぞ」
 ザイナスが言うと無邪気にキール・デリが笑った。
「そんなもんだ」
 夜道をタクシーが走りぬけて行く。ザイナスはうつらうつらし始めたキール・デリとカゴに入ったままのブラッキィを宿に送り届け、自分も泊まっているホテルに戻った。

 翌日、キール・デリは二日酔いの頭痛を抱えながらも路上に立った。そうしないと収入がないからでもあったし、ブラッキィが「さけくさいのはごめんだ、きーる」と宿屋で言ったからでもある。
「分かってるよ」
 後半、彼には記憶がない。目が覚めたら宿屋にいたからザイナスが送り届けてくれたのだろう。宿のおかみによると「やたら礼儀正しい青年が酒臭いあんたとウサギのカゴを抱えてハイヤーから降りてきた」そうだ。ついでにかなり高額のチップも置いていったので、翌日キール・デリは一人だけ特別に朝食を用意してもらっていた。
「まただよ」
 今日も平日なので人通りは少ない。頭痛もあってキール・デリは楽器を弾くのをやめ、すぐ真横にある花壇の縁石に座り込んだ。
「今日はやらないのかい、音楽家の兄ちゃんよう」
 後ろから威勢よく声がかかった。シュリンプフライの屋台からである。
「気分が乗らない」
 ぼそっとキール・デリは答えた。その時だ。
「なんだ、店じまいか。せっかく聴きに来たのに」
 ザイナスが自分の楽器を持ってキール・デリの前に立っていた。
「今日は酔っ払いだ」
「弾けないのか」
 キール・デリが顔をしかめる。 
「客がいない。やっても無駄だ」
「そうか」
 言うなりザイナスは、キール・デリの隣に座って自分の楽器ケースのふたを開けた。
「じゃあ代わりに俺がやろう。あがりは全部俺のものだ」
「別にいい」
 投げやりな返事にザイナスが顔をしかめた。だがすぐに楽器の準備に取りかかった。
 すぐに弾けるよう、楽器は事前に調整がされていた。ザイナスは簡単に弦を指ではじき、調子を確かめる。天使の彫刻が施された糸巻が目を引く。そして立ち上がってワルツを弾きだした。
「えらい違うもんだな。あんたと比べてずいぶんと上品だ」
 屋台の主が言った。うるさい、とキール・デリは言ったが、久しぶりに聴く友人の音色は確かに細やかで美しかった。あのやかましいブラッキィですら黙って聞き惚れていたくらいだ。
 友人の演奏を聞いているうちに、キール・デリはだんだんと暗澹とした気分になっていった。
「俺の音、荒れてんだな」
 人が来ないはずだ、そうつぶやいた彼の独り言は他の者には聞こえなかった。一曲弾き終わったザイナスに、キール・デリは拍手を送った。
「弾けよ、キール」
 キール・デリは首を振る。
「あんたの後じゃ弾けない。天才ソリストの呼び名は伊達じゃないんだな」
 ザイナスの眉が吊りあがった。
「俺は天才じゃない。天才はお前だ、キール・デリ」
「天才?」
 キール・デリの視線が冷ややかにザイナスを見据えた。
「誰が天才だって? 何を言ってる」
 ザイナスはたじろがなかった。彼はキール・デリの視線を受けとめたまま、次の言葉を待った。
「プレート持ちは人工物だ。その意味が分かってるのか、ザイナス。もしかして俺は楽器を弾くための存在なのかもしれないんだ」
「プレートは昨日見せてもらったよ」
 淡々とザイナスは答えた。
「それが何なのかは俺はよく知らない。興味もないからな」
 話しているうちに、穏やかだったザイナスの言葉がしだいに激していった。
「だが、ろくな楽器も持っていない、ぽっと出の若僧がシャトーブリューン・フィルの審査を通ったんだ。あの時の俺の悔しさが分かるか。四才から楽器を持たされて嫌も応もなくコンクールに出させられ、賞を取るのが当然だといわれてきた。賞が取れなかったら取れるようになるまでまわりから教え込まれ、叩きこまれた。それならできて当然だ。そうじゃないか?」
 キール・デリは黙って楽器を持って立ち上がった。
「音が荒れてる。聞かせられたものじゃない。それでもいいか」
「かまわない」
 ゆっくりと弓を滑らせ、キール・デリは自分と楽器の調子を確かめた。そして目をつぶり、一気呵成に音楽を紡ぎ出した。
「へ……え」
 屋台の中から感心したような声が聞こえてきた。ブラッキィは軽く身震いして耳を伏せ、ザイナスは腕組みをしてその音楽に聞き入った。キール・デリは無視して楽器を弾きつづける。
 いつも演奏している軽い民族曲や流行歌とはまったく違っていた。クラシックの定番ともいえる名曲だったが、これほど荘厳な旋律がキール・デリの楽器から流れ出るとは、誰も思っていなかった。
 祈りのようなその旋律の渦中で、ふらりとザイナスが楽器を構えた。キール・デリの横に並び、自分もその祈りに参加する。重なった音楽がまた違う表情を見せ始める。
 重厚な世界がひらいてゆき、明るく転調した。かぶさるように忠実に自分のあとを追ってきたザイナスを翻弄し、大胆に原曲から跳ね飛んでキール・デリが逃げていく。転調し、リズムを変え、一転して華やかな音の世界が展開する。
 ザイナスが追う。慎重に、小刻みに弓をふるい、宙を舞うかのようなキール・デリの音を確実に追っていく。猟犬のように着実な、しかし小気味よいスタッカートが、シルフのごとく軽やかに跳ね回るキール・デリを捕捉する。
 捕らえた、と全員が思った時に役割が入れ替わった。おどけたようなザイナスの旋律を主に、謹厳実直ともいえるキール・デリの低音がついていく。時々はずれるのは本当なのかわざとなのかは分からない。
 しばらくそれが続いたのちに掛け合いが始まった。追っては止まり追っては止まりしているうちに、どちらがどちらなのか分からなくなる。そしてぴったりと合わせて同じメロディを演奏し、始まった時と同じように荘重な空気をたたえて終わった。
 気がつくと彼らの前にはたくさんの人が立ち止まっていた。石畳に置かれた二個の楽器ケースにはあふれるほど小銭が入っている。そして現実に戻ってきた耳には、賞賛の拍手が轟き渡っていた。
 キール・デリとザイナス・カミングは互いの顔を見合わせ、にっと笑って丁重に目の前の人々に頭を下げた。

 足元ではブラッキィがもぐもぐと青菜を食べている。キール・デリとザイナスはすぐ後ろの屋台の前に座り込み、シュリンプフライを食べていた。
「うまいな、これ」
「だろ」
 ザイナスの持っている紙筒の中身は半分ほどに減っている。立てた膝の上には、美しい彫刻がされたヴァイオリンをむきだしのまま乗せていた。ケースに小銭が詰まっているからだ。キール・デリも同様で、二人は大事な楽器に油がつかないよう、注意しながら小エビの素揚げをほおばっていた。
「こんなに人が集まったのはじめて見たよ。あんた達は何者なんだい」
 驚いたように言う屋台の店主にザイナスが言った。
「ただのヴァイオリン弾きさ」
 キール・デリが付け足した。
「天才って言われてるけどな」
 おいおい、と屋台の主が笑った。ザイナスが紙筒を逆さにして底に残ったエビを口の中に流し込む。
「信じてないな。本当だぞ」
 キール・デリが黒焦げのエビをつまみ出しながら言った。立って真後ろを向き、交換しろ、と屋台の主にせまる。
「あんたじゃなくてそっちの兄ちゃんがだろ」
 屋台の主は黒焦げのエビを回収し、揚げたてをキール・デリのほうに放った。うっかり手で受けとめたキール・デリがあちちち、と騒ぐ。
「この金、全部俺が貰うからな。キール、お前確かそれでいいって言ったよな」
 ザイナスが言った。
「ち、ちょっと待て」
 エビと戯れるのをやめ、キール・デリがザイナスのほうを向いた。
「そんなこと言うなよ。宿屋の払いもあるし、俺、今回あんまり稼ぎないんだよ。頼むからそれくれよ」
「知らないなあ」
 ザイナスがにやにや笑いをしながらとぼける。
「お前金持ちじゃん。いいだろ、そのくらい」
 ザイナスを拝み倒すキール・デリの足元でブラッキィが口をはさんだ。
「よくばりはいけないぞ、きーる」
「欲張りじゃない! ブラッキィ、お前分かってないだろ。本当に今回は金がないんだ!」
 キール・デリのあまりの必死さにザイナスと屋台の主が吹き出した。ブラッキィはきょとんとしている。
「そうか? おれははらがいっぱいだぞ」
 脱力するキール・デリに、ザイナスが笑いをこらえながら肩を叩いた。
「昨日の飲み代として半分俺がもらう。残りはそっちの取り分だ。それでいいだろう」
「……いいよ、それで」
 ほっとしたのか、キール・デリはエビの入った紙筒とヴァイオリンを抱えて地面にへたり込んでしまった。そんな彼にブラッキィがそばに近寄ってきてこんなことを言った。
「ひとのものをほしがるのはいけないぞ、きーる」
「違う!」
 はてさて、こんな感じでこの町でのキール・デリの物語は終わる。ザイナスはこの後シャトーブリューンに戻り、キール・デリが追い出された顛末を聞くことになる。しかし彼らの友情にひびが入ることはなかった、と言う。
 

 

   

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