一  


 玲子は二十才の誕生日に母親から貰った小さな薬ビンを開けた。茶色くて古ぼけたそれは、玲子が十五才の時に亡くなった母親が彼女に譲り渡したものだ。死ぬ間際、二十になるまで開けてはいけないと母親はきつく彼女に言い渡し、どうして、と聞いても理由は教えてもらえなかった。
「絶対に駄目よ。それに落としたりしても駄目。二十才になるまでそっとしまっておきなさい」
枕元に呼ばれた玲子は何事かと思ったものである。それほど母親は思いつめ
たような顔をしていた。
「うん。分かった」
よく分からないが玲子はそう言った。そんな玲子を見て母親は安らいだ表情になり、次の日息を引き取った。よほど重大なものに違いない、玲子はそう思い、今まで素直に母親の遺言を守ってきたのだった。
 蒸し暑い夏の夜、一人暮しのアパートの狭苦しい自室で、玲子はそうっと埃まみれの蓋をゆるめた。
「なに入ってるのかな」
こわごわと茶色いビンの中を覗き込む。何も見えなかった。空っぽというよりはいくら見ても中が見えない、そんな感じだった。
「空?」
独り言が出た。あんなに大騒ぎしたのに空っぽなんて、これではタチの悪い冗談である。玲子はなんとなくおかしくなった。彼女の母親にはそんな人をひっかけて喜ぶところがあったから、やられたかと思ったのである。
「やめてよ、もう」
思わず逆さにして振ってみる。
 すると後ろからぽん、と肩を叩かれた。
「そんなことしちゃ駄目だって」
玲子のほかは誰もいないはずなのに人の声がした。驚いて振りかえると、彼女よりもふたつみっつ年上の、見知らぬ若い男が玲子の真後ろに立っていた。
「こんばんは」
男はにっこりと玲子に笑いかけた。
「誰?」
大声を出したつもりが、かすれたような声しか出なかった。
(なんでうちにひとがいるの)
警察を呼ばないと、そう思ったが体が動かない。どうやって鍵を開けて入ってきたのか、何の物音もせず、まるでそこにわいて出たようだった。
「玲子さん、だよね」
女子大生自室で惨殺、そんな言葉が頭をよぎった。
(やっぱりストーカーだ)
いつのまにか合鍵を作ってここに上がり込んだに決まっている。それとも帰りがけに後をつけてきたのかもしれない。しらぬ間に勝手にこのアパートに入って自分のたんすを開けたり、歯ブラシで歯を磨いたりしているかも、そんな風にこの前テレビで見た映像がぐるぐると彼女の頭の中で回っていた。
 ぶっとばしてやる、そう思ったが腰が抜けてしまっていた。相手はそんな玲子の様子を見て困ったようにまた、笑いかけた。
「いや、違うって。エリカさんに何か聞いてないの?」
エリカとは彼女の母親の名前である。
「ママの知り合い?」
「まあ、そう言うのかな。ちょっと違うんだけどね」
 母親の名前が出たことで玲子は少し緊張を解いた。それによく相手を観察してみれば、さっきから彼女に危害を加えようといった様子はなく、ただ面白そうに見ているだけだった。
「誰? なんでうちにいるの?」
今度はちゃんと声が出た。座り込んでビンを握り締めていた玲子を見下ろす形で、男は彼女に挨拶をした。
「俺、エミュ。代々あんたのうちに伝わる『使い魔』ってやつだ。一生お付き合いする事になるから、よろしくな」
言葉も出ない玲子に笑いかける。
 相手の言っていることが理解できなかった。言葉の意味は取れるのだがセンテンスが繋がっていかない。玲子はしばらくぼけっと相手の顔をながめていた。
「いや、だからあのビンの中に入っていたのが俺なんだけど。ほんとに何にも聞いてないの?」
「なにそれ」
 玲子の口からやっと出た言葉はそれだった。
「あんたのうちは魔女家系でさ、そういう家って代々伝わる魔物ってものがいるんだよ。で、それが俺なの。分かった?」
あまりに明るい口調と言っている内容のギャップに、彼女ははあ、としか言えなかった。
「説明がいる?」
とっくの昔に玲子の頭の中はパニック状態になっていた。聞いてもなんにも理解できまい。そうは思ったが一応彼女はうなずいた。
「うーん。どこから話せばいいんだろうな」
エミュは考え込みながら玲子の前に座り、話し出した。
 次の日、玲子は大学をさぼった。夜が明けるといつのまにかエミュはいなくなっており、玲子はふとんの中でごろごろしながら昨日の彼の話を思い出していた。
 玲子の家は魔女家系だとエミュは言った。曾祖母の代に、彼はアフリカの奥地から小ビンに詰められて彼女の家にやってきた。
 なんでもこのひいばあさんというのはハイカラな人で、願いがかなうと言われ人づてにエミュを貰いうけたらしい。この時の注意が代々娘に受け継いで行くこと、ビンの中身は決して出さないことだった。曾祖母は約束を守り、次の代へと彼を引き継がせた。
「いやー、スゴイ人だったよ」
 曾祖母のことになると、エミュはおかしそうに笑った。玲子の前には十二年物のモルトウイスキーが置いてある。父親が置いていったそれを、玲子はこの日初めて開けた。そうでもしなければ彼の話を聞いていられなかったのである。
「スぎょイって、何が?」
ろれつがまわらなくなっていた。エミュの話を聞きながら玲子はそれを半分飲んでしまっていて、空のグラスにからころ氷が鳴っていた。
「おい、大丈夫かよ。ちゃんと話聞けよ」
困ったようにエミュが言った。
「だーじょぶだって。あんた、あたしの家来なんでしょ。えらそうに言わないでよ」
玲子は片手で琥珀色の酒をグラスに注いだ。そのまま口に含む。
「家来って……。まあ、いいや。それでさ、し乃さんは俺を使って華族の殿様の二号さんにおさまった。正妻はダンナと仲が悪かったから実際は妻だよな」
「なんだ、ママと一緒じゃん。ウチって昔っからそんなんだったんだ」
 酔っぱらいのまま玲子は高名な政治家である父親を思い浮かべた。もう一年ぐらい会っていない。玲子の母親が亡くなる頃、父親は本妻の元には帰らず、ずっとつきっきりで病院にいた。その頃はもう玲子は自分の家が普通でない事を知っていたから、この二人はなぜ結婚しなかったのかと不思議に思ったものである。いろいろ事情はあったのだろうが、彼女の父親は本宅を放置して母親のもとに毎日のように通っていた。
 玲子の現在の生活費と学費は父親から出ている。父から援助をもらう事は最初、彼女には抵抗があった。しかし入学時に
「父親らしいことをしたい」
彼女の父親はそう言った。玲子としてもアルバイトで学費を稼ぎながら大学に通うのは、少々きついところだった。また入学時に大学に提出するため玲子は戸籍謄本を取ったのだが、そこには父として彼の名が記されていた。それで彼女は父親の援助を受ける事にしたのだった。
「いや、だからさあ、ホラ、俺がいるから」
 とぼけた顔でエミュは言った。酔っ払ってはいたが、玲子はエミュの言葉に引っかかった。
「俺がいるからって、なに」
かりこりとエミュは頭をかいた。
「魔女は魔物と一生をともにする。そういう決まりになってる」
「ちょっと待って。どういうイミ?」
玲子はいつのまにか空になっていたグラスに、もう一杯ウイスキーを注いだ。
「いや、だからさ」
エミュが口ごもった。どう説明したらいいのか分からない、そういった感じに見えた。
「つまり、あたしはあんたと一緒にならなきゃいけないってこと?」
「そう」
悩んだ顔で彼は答えた。本来なら彼女の母親が説明しておく事だったのだが、
先代の女主人は玲子には何も言わず死んでしまっていた。仕方なしにエミュは続けた。
「そして次の娘がまたそれを受け継ぐことになってる。結婚も出来ない。その代わりと言ってはなんだけど、あるじの願いをかなえることができる。たいていのことならね」
「待ってよ」
彼の言うことにはどうも矛盾がある。玲子は気がついた。
「あんた、結婚ができないってさっき言ったよね。だけど子供はいるわけ?」
「いるっていうか、絶対に必要。それも血のつながった人間の女の子」
 ぼけた頭で玲子は一生懸命、曾祖母からの系譜を思いだした。曾祖母は華族の二号さんだったとエミュは言った。祖母は芸妓で確か大店のご主人がパトロンであり、母親は彼女の知っているとおり大物政治家の愛人だった。
「分かった?」
なにやら納得した様子の玲子にエミュが言う。大きな仕草で玲子は首を横に振った。
「それってひどくない。そんなの聞いてないし、あたしは絶対そんなのやだ」
やだやだ、と酔いで真っ赤になって玲子はいった。エミュは少しの間その様子を見ていたが、騒ぎ立てる玲子からこぼれそうになったグラスを取り上げた。
 急に真顔になり、右のてのひらで玲子の頬をぽんぽん、とたたく。
「インプンドゥルゥは女主人の恋人となる。そう決まっている。その代わり、彼女の願いをかなえ、使役される。その契約は生涯続き、次の代に継承される。あるじをなくしたとき、インプンドゥルゥは悪霊イショログゥとなりわざわいを撒き散らす」
「そんなのごめんよ」
玲子は彼の言う事をほとんど聞いていなかった。結婚できないと言われたことに腹が立ち、勝手な事を言い立てていた。
「ママみたいになるのは絶対いや。それにあたしは好きな人がいるんだから。絶対その人と結婚するんだから、邪魔したら許さないからね」
「遠藤先輩か」
「なんで知ってんのよ」
「そりゃ、なんでも知ってるさ」
彼女から取り上げたグラスにウイスキーを注ぎ、エミュはそれを自分の口に持っていった。
「あんたが何人恋人を持とうが、それは自由だ。そのことについて俺が言うこともないしな」
何か言いたげな玲子の言葉をエミュは遮った。
「だがその中の一人には必ず俺が入ってなきゃならない」
「そんなの嫌」
「そのうち分かる。そのうちにな」
エミュはアパートのちゃちい壁にもたれかかり、グラスを持ったままそう言った。
 昼頃、痛い頭を押さえながら玲子が起き出すと、タイミングを計ったようにエミュが外からやってきた。
「ほら、朝メシだ」
エミュが渡したコンビニの袋の中には、オレンジジュースとおにぎりが二つはいっていた。
「ありがと」
 とにかく水分が欲しくて、玲子はオレンジジュースのパックにストローをさし込んだ。そんな玲子の様子を見ながら、エミュはホチキスで留めた数枚の紙を取り出した。
「これがトリセツ。あんた昨日途中で寝ちゃって俺の話聞いてなかっただろ。もう説明するのイヤだから細かいところは読んどいてくれよ」
「……分かった」
なんというのか、気の利く男だと玲子は思う。何百年も生きているというだけはあると、玲子は変な感心の仕方をした。
「それからこれだけは言っとくけど」
エミュは玲子を、台所に置いてある例の薬ビンのところへ連れて行った。
「このビンには俺の本体が入ってる。この中に月に一回、自分の親指を切って一滴、血を垂らすこと。一滴だけでいいんだ」
「えーっ。そんなことするの」
玲子がいやがるとエミュはこう言った。
「夜中に隣の人の血を吸いに行ってもいいならいいけど。でも死人が出るよ。月いちでアパートの住人殺したい?」
俺って魔物なんだぞ、そう玲子をおどす。
「……ううん」
「じゃあちゃんとやってくれよ。俺もこの姿を手放したくはないからな」
 言うとエミュはアパートの台所を見まわした。
「汚いね、ここ」
「ほっといてよ」
玲子が答えるとがたがたとエミュはその辺を片付け出した。
「まー、エリカさんよりはマシだけど」
どこからともなくエプロンを取り出し、手早く身につける。
「でもエリカさん、一日中働いてたからな。あんたひまなんだろ。少しきれいにしたら」
言い終わる頃には積んである食器がきれいに洗われていた。続いて買っただけのブリーチを見てため息をつき、片端からふきんを漂白していった。
「うるさい」
玲子は小さい声で言ったものの、これ以上何か言う気力はなかった。確かに便利は便利である。
(だけどねえ)
ぼんやりしている彼女のそばで、エミュはどんどん台所を片付けていった。

    

inserted by FC2 system