二


 例の説明書を玲子は大学に持っていき、授業の合間に図書館で目を通していた。
(インプンドゥルゥってなに)
それにはエミュが何であるのか記されていたのだが、彼女には半分も分からなかったのである。当然というかやはりというか、エミュの封じ込め方も載っていなかった。本人に聞けば一番早いのだろうが、それも玲子にはしゃくだった。
(まったく、人をバカにして。こんなの分からないよ)
分かる部分はエミュが説明した事の繰り返しだった。読んでいてうんざりし、改めて玲子は彼の存在に腹を立てた。仕方なしに彼女は図書館で調べる事にしたのである。うまくいけば封じ込めの方法もわかるかもしれない。由来など難しい漢字と表現が並んでおり、学術論文を読んでいるような気分だった。
(一生あんなやつと一緒なんて冗談じゃない)
それが玲子の本心だった。
 最初に百科辞典の「い」のところを開くが載っていなかった。次々と関連図書を机の上に山積みにしていく。玲子の机の前には「南アフリカ民俗史」だの「アフリカの魔物・妖怪辞典」と言った本が広げられていた。だがどれも断片的にしか載っておらず、エミュが何なのかどうもはっきりしなかった。
 最後に玲子は小さな文庫本を見つけた。ここにもほんの少ししか載っていなかったが、いままでよりはいくらか詳しかった。
 
   インプンドゥルゥ
 南アフリカ、ケープ州にいる魔物。代々受け継がれる魔女の使い魔で若い男性の姿で現れ、その恋人となる。常に血に飢えており、その食欲を満たせなかった場合はたとえ雇い主でも恐ろしい死に方をする。また解放された場合は無慈悲で冷酷な怪物となり災いと死を撒き散らす。
 もし相続されない時は自分自身の意志で動く悪霊『イショログゥ』となる。

 分かったのは見かけによらず物騒なものであるらしいということだけである。彼女が知りたかった退治の方法はどこにも書いておらず、玲子はあやしげな本の前でため息をついた。
「こんなに本を山積みにして、何を調べてるの」
 低い、柔らかい声がした。見上げると三年生の遠藤祐一だった。
「あ、先輩、なんでもないです」
エミュが指摘した遠藤先輩である。祐一は散らばっている本をかき集めている、玲子の隣の椅子に座った。
「難しいもの読んでるんだね」
エミュのよこした説明書を取り上げる。玲子はあわててそれを祐一から取り戻した。
「ちょっと頼まれてて。すみません」
見られないよう、半分折りにして玲子はその紙をカバンにしまった。そんな彼女に祐一は話しかけた。
「こんどの日曜日、ひま?」
そう言いながら祐一は、自分の財布から二枚のチケットを取り出した。
(えっ)
「この前見たいって言ってた映画なんだけど、券があるから一緒に行かない?」
「い、行きます」
思わず大声を出してしまい、玲子は図書館中の注目を浴びてしまった。
「大丈夫?」
落ち着いた彼の声と対照的に、玲子の声は上ずっている。
「ずっとひまですから大丈夫です」
彼女がひっくり返った声で言うと、面白そうに祐一は笑った。
「じゃ、よかった」
手早く時間と待ち合わせ場所を決め、まだボーっと舞いあがっている玲子に祐一はこう言った。
「じゃ、券は僕が持ってるから。遅れないでね」
「はい」
 踊り出したい気分で玲子は家に帰った。アパートのドアを開けるとエミュが狭い台所で夕飯を作っていて、玲子に向かっておかえり、と言った。
「あんた出てってよ」
「なんで」
「邪魔だから」
ひでえ女、とエミュがエプロンを掛け、おたまを持ったままがっくりする。
玲子は構わずこう言った。
「今日先輩から次の日曜日に映画にいかないかって誘われたのよ。へんな誤解されるといやだから出てって」
「へんなって、それなら別にいいじゃん」
 ぴかぴかにきれいな台所でエミュは言った。おたまで鍋の中身をすくって味見をする。ことことと音を立ててビーフシチューが煮えていた。
「あ、燃えるごみは捨てといたぞ。それと壊れたキャビネットも捨てたからな」
粗大ゴミの日は明後日である。
「あんなもの、どうやって捨てたの」
「市役所に電話して取りにきてもらった」
「変な事よく知ってるね」
 あの日以来エミュは家中を掃除し、たまり放題のごみを捨て、炊事、洗濯と大活躍だった。あまりに至れり尽せりのためそこに玲子が乗っかってしまった事は否定できない。
「じゃ日曜日、俺が起こしてやるよ。どうせ絶対自分で起きないだろうし、初デートに遅刻して恥かくよりいいだろ」
ビーフシチュー、野菜サラダ、ほかほかの御飯といったものをテーブルに並べながらエミュは玲子に言った。
 まるで遠足に行く幼稚園児の扱いである。腹ただしく思いながら玲子は食卓についた。エミュがテレビのリモコンを操作し、いつも見ているドラマにチャンネルを切り替えた。
「一つ聞きたかったんだけど」
スプーンをなめながら玲子は彼に聞いた。
「なんでアフリカ出身なのに黒人じゃないの?」
エミュの姿は二十二、三の、少し長めにストレートの髪をカットした青年である。背は百七十五センチ前後で高くもなく低くもなく、どちらかといえば色白でほっそりしていた。
「それはあんたのイメージを使っているから」
しょうゆドレッシングのかかったレタスをかじりながら彼は答えた。
「あるじの持っているイメージをうつすんだ。だからその時々によって姿が違う。俺自身には本体があるだけでこれと言ったものはない」
「ふうん。うまいよ、これ」
分かったような分からないような答えだった。空になった玲子のシチュー皿にエミュはお代わりを盛った。
「本体ってあのビンに入ってるんでしょ。どんな風なの」
「キモチワルイから見ないほうがいいぞ」
 食後のお茶が出る。エミュは一服してから洗い物にとりかかる。玲子のシャツにアイロンを掛けているときもある。その間、玲子は風呂に入ったり友達と長電話をしたり、勝手な事をしている。十二時頃になると
「寝る」
と言って彼はいなくなってしまう。あの小ビンの中に戻るらしかった。朝は朝でばっちりと朝食をつくって玲子を起こす。
 なんというのか、玲子にとっては奇妙で便利な同居人であった。本にあったような血に飢えた魔物でもなく、かといって夜中に玲子を襲いに来るようなこともない。彼が持ち込んでくるのは日常の空気であり、ごく普通のなんでもない日々だった。感覚もちょうどよい。エミュは同じ部屋にいるのに、玲子の邪魔にならない程度の距離を保っていた。彼の言葉や図書館の本には恋人、とあったが、玲子にとって現在のエミュの位置付けは兄に近かった。
 口やかましくはあったが何くれとなく世話をしてもらって、玲子は落ち着いた気分で生活していた。
 もっともエミュのほうが玲子に一歩引いて現在の関係を保っているわけだったが、彼にとっては玲子は「あるじ」という存在以外の何者でもなかった。エミュから見て玲子は今までの女主人達とは少々違っていたが、それでもあるじには変わりなく、エミュはそうした態度で彼女に接していた。
 ただ月に一回、真夜中に親指にカッターナイフを当てる時だけ、玲子は自分のそばにいるのが人間でない事を思い出した。この血がエミュを養いコントロールしていると、以前玲子は彼に聞かされたことがある。本来ならこの程度の量の血で間に合うわけがなく、彼女が忘れれば死者が出る。また玲子以外の人間の血を与えれば、彼はたがが外れ恐ろしい事が起きる。そう本人に玲子は言われた。のちに彼女はそれを嫌というほど教えられることになる。
 その晩、玲子は皮一枚を切ればよいのに、間違って思いきり深く指を切ってしまった。ぼんやり考え事をしていたのがいけなかった。
(つっ)
 夜の二時頃でエミュはいず、あふれる血を押さえながら玲子はばんそうこうを幾重にも巻いた。
「いったーい」
 思わず声が出る。痛さのあまり涙目になっていた。
 すると、不意に目の前にエミュが現れた。
(なにやってんだよ)
 言葉ではなかったが、心配そうな響きが伝わってきた。
「あんたのせいよ」
 玲子が言うと、やれやれ、とエミュは切った指をくるむように、彼女の手を自分の手で包んだ。人間ではないはずなのに、暖かい手をしていた。
(もういいよ)
エミュの手が離れる。赤く染まったばんそうこうをはがすときれいに傷は消え、痛みもなくなっていた。
 玲子は目を丸くした。
「すごい」
(気をつけろよ)
そうして彼はまた一瞬にして消えてしまった。
 翌朝、玲子が大学に行く前にエミュはもう一度傷を確認して、ま、いいだろ、と言った。
「跡が残っちまうからな」
そう言うと彼は何事も無かったかのように風呂場のほうに行き、洗濯機を回し出した。
「クリーニングに出すものくらい分けておけよ」
 風呂の残り湯を汲んだバケツを持って玲子に文句を言う。反対側の手にはカ
シミアのカーディガンを持っていた。
「あのさ」
 おそるおそる、玲子は彼にたずねた。なぜおそるおそるなのか、自分でもよく分からなかった。
「日曜日、映画に行っていいの」
 洗濯物を選り分けながらエミュは答えた。
「だから俺が起こしてやるっていったじゃん。どうせ前の日一時頃までテレビ見てんだろ。絶対自分で起きれないって」
(そうじゃなくてさあ)
出かける格好のまま、玲子はアパートの出入り口に立っていた。
「ほんとにいいの?」
 どうしてか分からないが、日曜日にエミュを置いて他の男と出かける事は気がとがめた。一方、エミュのほうは何も気にしてはいなかった。
「なに気にしてんの。あこがれの先輩だろ。あ、それともそいつ、日曜日にこの部屋に来るのか? そしたら俺いたらまずいよな。日曜は消えてるようにしとくよ」
 なぜか腹が立って、玲子はエミュがまだしゃべっているのにばん、ととんでもなく大きな音を立ててアパートのドアを閉めた。おい、なんだよ、と言ったのがドア越しに玲子の耳に聞こえてきた。
 日曜日はあっという間にきた。玲子は結局いつもどおりエミュに起こしてもらい、朝食をつくってもらってデートに出かけた。情けない事にエミュに起こされなければ、この日玲子は遅刻するところだったのである。
「もう出ないと間にあわねえぞ」
「もうちょっと。ねえ、この色変じゃない」
「平気だよ」
 玲子は姿見の前でぐずぐずしていた。オリーブグリーンの木枠もガラス面もちり一つついていない。エミュがほこりを払い、磨き上げたのだ。
 何か自分がひどいことをしているような気がして、玲子は家からなかなか出られなかった。様子を見ていたエミュはいらいらしてきて、とうとうこう言って玲子をアパートから追い出した。
「早くいけよ、バカ女。髪なんか直したってかわんねえよ」
「ひっどーい。なによ、家来のくせに」
 そう言いながらも玲子はほっとしていた。理由はなぜだか分からない。けれどもそう言われて安心した。
「今日帰ってこないかんね」
「あっそ。がんばれよ」
 玲子の捨て台詞をさらりと流して、エミュはドアを閉めた。
 お湯を沸かしていたやかんがピーッと鳴る。玲子が出かける前にコーヒーをいれようと思ったのだが間に合わなかった。
 彼は自分の分だけ粉を用意してコーヒーをいれた。飲みながら壁のカレンダーの日付を見る。彼が現れてから三ヶ月も経つというのに、玲子はまだ気づかず自覚もなかった。今日の事にしても、降ってわいた幸運と思っているに過ぎなかった。
(エリカさんはあの子を普通の娘にしたかったんだな)
 彼女が望めば、欲しいものは苦労することなく簡単に手に入る。エミュは玲子に教えてやるかどうか迷い、そうして大きなため息をついた。

    

inserted by FC2 system