三


 今日は遊園地、あしたは買い物、試験が近づけば図書館デートと玲子と祐一の付き合いは続いた。出かける前にいつも玲子は少し迷い、願いがかなったことを自分で確認し、それから出ていった。玲子に迷いが残るのはエミュの存在があるからだったが、一方のエミュは何も気にすることなく玲子を送り出していた。
「あたしさ、あさってから旅行に行ってくるから」
 単なる同居人のはずなのに、エミュに話を切り出すのは玲子にはなぜか苦痛だった。それでも必死の思いでそう言った。
「あっそ。誰と」
「ユウイチと」
「何日?」
「二泊三日。北海道にいってくる」
ふーん、とエミュは言った。台所に張ってあるカレンダーを見上げる。
「そりゃいいけど、行く前にコレ忘れんなよ。何が起きても知らないからな。なんだったら持っていけよ」
エミュは調味料の棚に少し離れて並んでいる、彼の本体の入った薬ビンを指差した。玲子はいい、と言った。
「割れたらまずいんでしょ。あぶないから置いておく。行く前にやっておくから」
 旅行の当日も玲子はエミュに起こしてもらった。朝の五時頃から祐一が車で迎えに来るとあって、彼は頃合いを見て姿を隠した。
「おはよう」
アパートの入口まで祐一は上がってきて、玲子の大きな荷物を運んだ。後ろから玲子は嬉しそうについて行った。
「すごくきれいにしてるんだね。玲子って意外と女らしいんだな。見直したよ」
 驚いたように祐一は言っていた。考えてみるとエミュは玲子からなんの見返りももらっていない。毎日毎日、文句を言いつつ玲子の代わりに家中を切りまわしている。玲子はエミュのことを思い出して少し心が痛み、祐一に甘ったれた素振りでしがみついた。
 小ビンに血を落とすのを忘れたことに気がついたのは、出発の飛行機の中である。あれほどエミュに言われていたのに、玲子は祐一が来る事に気を取られてすっかり忘れていた。
「……どうしよう」
となりのシートでうたたねをしていた祐一がその声で目を覚ました。
「どうしたの」
なんでもない、と玲子はその場を取り繕った。そう、と言って祐一はまた居眠りに戻った。
 旅行中、何度も玲子は自分の家に電話を掛けた。いつもならエミュが出るのだが、今回は留守番電話が出るばかりで一度も通じなかった。こんなことは初めてだった。最終日は留守電も出なくなり、玲子は胸騒ぎを打ち消す事が出来なかった。
「旅行中そわそわして変だったけど、何かあったの」
 帰りの飛行機の中、祐一は玲子に聞いた。なんでもない、と彼女が言うと祐一は
「旅行、つまらなかった?」
そう言った。
「違う、全然違うから。ただね」
玲子は祐一にエミュのことをしゃべりそうになり、あわてて言葉を切った。
どう説明すればよいか分からなかったし、話してはいけない事でもあった。
「うち、エアコン切ってきたかなと思って。ほら、忘れちゃうと電気代すごいじゃない。それだけなんだ」
「なんだ。そそっかしいところがあるんだね」
祐一は安心したように笑った。
「殺人事件だって」
「やだ、全身ズタズタって、気持ち悪くない」
 後ろの座席から声が聞こえてきて、玲子と祐一は機内の前のほうにある大きなスクリーンに目をやった。
「玲子の家のそばじゃない」
 ほんとだ、と玲子は画面を見て場所を確認した。彼女の住んでいるアパートのまわりの風景が写っていた。
「すごい近く。やだなあ」
「僕がいるから大丈夫だよ」
 祐一はそう言ってみせた。その顔に、玲子は自分が裏切り者になったような気がしてきた。
 彼と別れた時はもう八時を回っていた。大急ぎで玲子は自宅に帰ったが、外からアパートの自室を見ると部屋に明かりが点いていなかった。つのる不安を押さえて玲子はアパートの鍵を開けた。
「ただいま」
 エミュはいなかった。明かりをつけると部屋中突風が吹いたかのようにありとあらゆるものが散らばっており、特に台所の周辺がひどかった。電話機はコードが引きちぎってあった。
(……信じられない)
 例の薬ビンは無事だった。作りつけの棚に収まっており、ちょうどビンの高さのところに幅広の木の板が打ちつけられていて、そこに隠れるように入っていた。
「……エミュ」
 めちゃくちゃに散らかった部屋の中に立ち、彼を呼んでみる。
「どこにいるの」
 彼女の声を聞きつけてエミュが現れた。玲子は安心し、その顔を見てぎょっとした。
「おかえり。れーこちゃん」
 口が耳まで裂けてしまっている。目は真っ赤でどこが瞳とも白目とも分からない。赤い光が二つ顔についている、そんな感じだった。
「ひどいよな。俺のごはん忘れちゃって、男と出かけちゃうなんてさ」
 ニッと笑うと、不揃いな鋭く尖った牙が大量に口元にこぼれでた。鮫の口のようだった。
「どうしたの」
 震える声で玲子はいった。
「何度も電話しないでくれよ。うるさくって」
 エミュはその姿のまま玲子のそばに寄ってきた。硬直して動けない彼女の肩に手をのせる。びしゃりとした、湿った冷たい感触がブラウスの薄い生地越しに伝わってきた。
「帰ってきてくれてよかったよ。ハラ減っちゃって俺、二人やっちゃった。途中、葬式の花輪を見ただろ。あれ、俺がやったんだ」
「全身ズタズタって……まさか」
「そう、俺。俺がやったの。テレビ局とか来てすごかったよ。騒ぎが大きくなるとまずいと思って、もう一人は遠くに行ったんだ。それで帰ってくるのが遅くなった」
 甘ったれたような口調がおぞましかった。
「でもれーこちゃんが帰ってきてくれたから、これで三人目を探しにいかなくてすんだ。三人目はれーこちゃんだ」
「……何、いってるのよ」
 エミュの発音がはっきりしていないことに彼女は気がついた。上下の牙がこすれて、かすかに不快な音を立てる。
「やだ!」
 鳥肌が立って玲子は彼を突き飛ばした。
「なあにすんだよう。クソアマ」
 さらにエミュの発音が不明瞭になった。突き飛ばされて腹を立てたらしい。髪が逆立ち、赤い目が見開かれた。
「俺をあそこから出せよ」
 エミュはすさまじい形相で玲子に要求した。
「いくらやってもあのいまいましい棚から落ちねえ。あんたじゃねえと駄目なんだ。早く俺を解放しやがれ」
(悪霊)
 その言葉が玲子の胸に突き刺さってきた。あるじのコントロールが効いている間はおとなしい。だが一度暴れ出せば凄まじい被害をもたらす。
「早くしろよ」
 ぎらぎらと並んだ牙が光る。どうやって彼をおとなしくさせたらいいのか玲子には分からなかった。それでも彼の言う通りには出来ない。
「ムリよ」
 玲子の返事を聞き、エミュはさらにいきり立った。
「ふざけんな!」
 エミュの口が開く。唇にそってついた牙が、筋肉の動きとともに花のように開いたり閉じたりする。
 そのなめらかな動き方が玲子に吐き気を起こさせた。
「こないで!」
 この時には彼はすでに人の姿を留めていなかった。手足のある怪物となり、玲子のほうに向かってきた。
(殺される)
 そう玲子が思った時だった。飛びかかってこようとしたエミュが急に動きを止めた。
「……ちきしょう」
 赤い目だけが彼女を睨んでいた。エミュは唸り声をあげその場にとどまっており、からみついた何かを振りほどくように、ときおり体をうねらせていた。
(イヤ)
 強い否定と破壊の感情が玲子に届く。
 その思いの底にほんの少しだが怯えがあった。玲子は敏感にそれを感じ取った。
(アルジ。コワイモノ)
 エミュ本人にも普段は分からないほどのかすかな感情だった。小さな茶色の小ビンに押し込まれた頃、あるじに反乱しないよう、恣意的に植えつけられたものだった。それが彼を縛り、あと一歩のところで身動きを取れなくしていた。
 人の姿を取るようになってから、彼はその感情を忘れていた。そして自分でなぜ動けなくなったのか分からず、ただいらだっていた。
「解放しやがれ!」
(コワイ)
 自分の何を怖がっているのだろう、玲子はぼんやりと思った。玲子にとって怖いのは、目の前にいる変化しつつあるエミュだった。
(あたしの方がこわいのに)
 一瞬、エミュの赤い目が玲子を見つめた。ぴたりと動きが止まり、再びもがきだす。こすれるような軋んだ音とぐうっ、という唸り声を発し、玲子を罵る。
 しかし、罵詈雑言を吐き散らしているが襲ってくる様子はない。なぜエミュの動きが止まったのか分からないまま、玲子はそろそろと後ずさりし、台所の薬ビンを取りに行った。
(もしかして)
 ハラが減った、とさっき彼は言った。エサを与えればおとなしくなるかもしれない。
「そこにいて。動かないで」
 玲子は祈るような気持ちでビンの蓋をあけた。ぐうう、と大きな唸り声が聞こえる。エミュはそこから動けないでいる。それを確認し、流しの上で包丁を持ち自分の指を切った。痛さは感じなかった。一滴、二滴、三滴と自分の血を小ビンに流し入れる。
 そのうちに間断なく聞こえていた唸り声が止まった。手が震えるので落とさないように注意しながらビンの蓋を閉める。奪われないよう、ビンをしっかり握り締めてエミュの様子を見に戻った。
 辛うじて人の姿を留めたまま、エミュはその場にうつぶせに倒れていた。徐々にそれが薄くなり、夜明け頃にはすっかり消えた。小ビンを握り締めたまま、玲子は散らかった部屋の中でその様子を一晩中見張っていた。

    

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