暖かくて柔らかくて湿ったその場所には、彼の仲間たちがたくさんいた。彼は何も考えることなくそこにいて、他の仲間たちと同じように暮らしていた。いつも同じ温度、同じ湿度で彼には快適だった。一生ここにいてその場所から出ることはなかったはずだった。
 そこへある日、生き物が踏み込んできた。においを嗅ぎつけて仲間たちが寄って行く。もちろん彼もそうした。いつも飢えている彼らには、このにおいは食物のシグナルでもある。
(ショクジ)
(ショクジ)
(ハライッパイ)
 褐色の肌に仲間たちが取りついていく。もちろん彼もそうする。めったに食べられないから、一度食物にありついたら絶対に離さなかった。今回もそのつもりだった。
 ところが彼らは、暖かくて住み心地のいい泥の中から引きあげられてしまった。そのまま煮立った湯の中につけられてしまう。
(アツイ)
(アツイ)
(タスケテ)
 食いついていられなくなり、色の変わった仲間たちがぽろぽろと落ちて行った。真っ赤に染まった湯の中から、仲間たちの悲鳴が聞こえる。
(イヤダ)
 となりで最後まで残っていた仲間もとうとう下に落ちて行った。彼の鉤爪は丈夫だったが、それでももう持ちこたえるのは難しくなってきた。
「これにしよう」
 すんでのところで湯から引き揚げられた。女の手が伸びてきて落ちる寸前の彼をむしりとる。湯につけられて、彼の身体は三分の一程度にちぢんでしまっていた。それでも死んではいなかった。そのまま彼は茶色い小瓶に詰められ蓋をされた。

「なにしてんの」
 女主人の声だ。はっと気がついてエミュは、フローリングに敷かれたカーペットの上から起きあがった。
(夢なんか見るのか)
 驚きだった。あの出来事があってからのエミュは、調子が狂いっぱなしだった。
「信じらんなーい。あんた、もしかして居眠りしてたの」
「ちょっと寝てただけだろ」
 エミュは玲子にそう言い返した。なぜか知らないが、玲子は素直な彼よりも言い返された方がいいらしかった。
 それよりも居眠りをして夢なんぞを見ていたほうが、彼には気にかかった。本来ならあるはずのないことだからだ。
「けっこう飲んでたもん、彼。しょうがないよ」
「いくらいとこだからって、玲子きついよ、それ」
 玲子の友人達が口々にそう言ってエミュを援護した。席の反対側には祐一の顔も見える。
 エミュは玲子のいとこということで彼らに紹介されていた。エプロンをかけてアパートをうろうろしていたところを、突然やってきた玲子の女友達に見つかったのである。一週間だけのいそうろうということで、玲子は祐一や友人達に話した。
「でもさ、お店で寝ちゃうのってかっこわるくない」
 玲子はエミュが酔わないのを知っている。だからそう言っていた。祐一がそれを聞いて笑う。
「僕もけっこうやるよ」
「祐一はいいの」
「なにそれ」
 玲子の返事にどっと座が盛り上がった。エミュだけがしらけた気分だった。
(なんだよ、それ)
 つまらない顔をしているエミュに、玲子の女友達の一人がビールを注いだ。
「今日、レイコんちに泊まるの」
「うん」
 泊まるも何も、彼女の家は彼の家でもある。
「ふうん。先輩がレイコんちに行きたがってるんだよね。なんか一度も泊ま
ったことがないんだって」
 ふたたびエミュはしらけた気分になった。
「そうなんだ」
 しらじらしくそう言ってみる。相手の女の子はこうエミュに耳打ちした。
「だからさあ、うちこない」
「えっ」
 エミュは思わず聞き返してしまった。こんなことは初めてだった。
「でも、俺、玲子さんに聞いてみないと」
 あるじの許可なく勝手な事はできない。彼はそう思い、ついうっかり言ってしまった。
(それに)
 エミュが思ったことはすぐに心の奥底に消えてしまった。そんなことを考えてはいけない、そう思ったこともだった。
「お時間です」
 居酒屋の従業員が、幹事を務めている祐一のところに伝票を持ってやってき
た。祐一がじゃあ、そろそろ、と大声で叫ぶ。
「なに、もう時間なんだ」
「早いね」
 ざわついた空気を押しのけるように、テーブルの向こうから玲子の声が響いた。
「ちょっと、カヨに手を出すんじゃないわよ」
 カヨと呼ばれたエミュのとなりの女の子は、まけじと大きな声をはりあげた。
「二次会はレイコんちね。先輩とレイコとあたしと、それと彼だから」
 え、と言っている玲子にかまわず、彼女はエミュを指差した。
「じゃ、決まり。買出しにいってくる」
 飲み会がはねたあと、カヨはエミュの手を引っ張って半ば強引にコンビニに連れて行った。玲子は祐一がとなりにいるにもかかわらず、どういうわけか不機嫌になっていった。

 レイコのことが好きなんでしょ、とカヨはエミュに言った。三人ともだいぶ酔っ払っていて、しらふなのはエミュだけになっていた。祐一に至っては酔いつぶれて眠っていた。
「先輩寝てるから、なに言っても平気だよ」
 カヨがそうエミュをそそのかす。
「エミュは違う。違うんだよ」
 玲子が舌足らずに口をはさむ。そういうのと違うの、という玲子にカヨがからかうように言った。
「あんたたち仲いいよね。ただのイトコ同士には見えないよ」
 そこでむくっ、と今まで眠っていた祐一が起きあがった。玲子もエミュも、思わずぎょっとしてそっちを振り向いた。それを見たカヨが、けたけた笑った。
「そうだよなあ。僕もそう思うよ」
 半分寝ぼけながら祐一は話に加わった。エミュと玲子の間に割り込むようにして座る。
「そんなことない」
 エミュは控えめに否定した。どうかなあ、と祐一がからむ。
「だって僕はこの家に泊まったことないんだよ。なのに君はよくこの家の中
を知ってるよね」
「それは……」
「君がいるから僕はこの家に泊めてもらえないんだな」
 祐一のいやらしい言い方に玲子は青くなった。カヨがげっ、といった顔をする。
「きのうもここに泊めてもらったから」
 エミュが苦しい言い逃れをすると祐一はさらにからんできた。
「じゃあ二泊したわけだ。なんで彼はよくて僕はいけないの」
 最後の言葉は玲子に向けられたものだった。玲子はおろおろし、カヨがあわてて先輩、飲み過ぎですよ、と彼をいさめた。
「そうかな。僕は気になったことを聞いているだけだよ」
 言葉の穏やかさとは裏腹に、険を含んだ口調で言う。たちの悪い酔っ払い方だった。
「うるせえなあ」
 むかむかしてきてエミュはとうとう言ってしまった。こんな男だったら玲子のオネガイなんかかなえるんじゃなかった、そう思った。あの件に関して彼はごほうびをもらっていない。
「ほかに女作って玲子さんを泣かせたくせに、偉そうなこといってんじゃねえよ」
「なんだって」
 祐一が気色ばむ。
「おまえ、最低だよ」
 エミュは今まで見てきたあるじの男達と比べて、かなり下の方に祐一をランク付けしていた。今日のことでさらにまたランクが下がった。
「なんでこんな男が好きなんだよ。俺はイヤだ」
 いくぶんの嫉妬が混ざってはいたが、本当のところ祐一と玲子は釣り合わないとエミュは思っていた。これまでは彼が口を出すことではなかったから黙っていたが、今日は別だった。見返りなしでオネガイをかなえたのに、こともあろうに祐一は彼にからみ、あるじを困らせているのだ。
「エミュ、やめてよ」
 困り果てたように玲子が言う。
「こいつはなんなんだ」
祐一が怒鳴った。
「なぜこの家の中を隅から隅までしってるんだ。いとこなんて嘘だろう」
「知ってちゃ悪いか。俺はここに住んでるんだよ」
「エミュ!」
 玲子の叱責が飛ぶ。いけない、とエミュは思った。もう遅かった。最近、どうも彼はおかしかった。
「なんだって」
 低く祐一の声がうなった。
 静けさが室内を覆った。玲子はカヨの方を見た。
「うん、あたし帰るね」
 そこらに転がっているカバンを拾い、上着を持ってカヨはアパートから出て行った。
「エミュも消えて。あたしがちゃんと話しする」
 ばんそうこうを巻いた親指を見ながら、玲子は言った。納得してもらえるかどうかは分からない。それでも説明をしなくてはこの場は収まらなかった。
「やばくなったら呼べよ」
 不安な顔をしてエミュはその場からたち消えた。それを見た祐一があっけに取られた顔をする。
「なんだ、ありゃ」
「今説明する。信じられないと思うけど聞いて」
 玲子は台所に立ち、あの古ぼけた薬ビンを持ってきた。なんだそれ、と祐一が言う。
「これがエミュなの。あたしが食事をあげて一緒に暮らしてる」
「ふざけるな」
「ほんとうよ」
 祐一はビンをひったくると電灯の光にかざしてみた。なにも見えなかった。
「空じゃないのか」
「ちゃんと入ってる。でも何が入ってるか知らないの。見せてくれないから」
 ポケット中を探して、祐一はタバコとライターを見つけ出した。とてつもない冗談を言われているような気がしていた。
「ママからもらったの。ママとも、おばあちゃんとも一緒に生活してたって言ってた。代々うちに伝わっているんだって」
 祐一はビンの蓋を開けた。キシキシ、というかすかな何かがいる音がした。祐一が中に人差し指を入れるとぬるり、としたものに触った。
「冗談はともかく」
 煙を吐き、祐一は努めて落ち着いた素振りで言った。
「こんな気持ちの悪いもの飼ってないで、捨ててくれ」
「できない」
「なぜ」
 たった一回食事を忘れただけでエミュは大暴れした。玲子が見捨てれば何人
死者が出るか分からなかった。
「あたしが世話をしないと人が死ぬの」
「やめてくれよ」
 祐一は中が見えないことにいらだって開いているビンを振り回した。
「中身出しちゃダメ!」
 玲子が叫ぶ。
「こんなもの、捨ててやる」
 祐一はアパートの壁にビンを放り投げた。壁にぶつかり、衝撃で中から小さな生き物が飛び出てきた。ぺちゃりと平たい音がして床にそれが落ちる。ひび割れ、空になったビンを拾って玲子がそこに駆け寄った。祐一もやってきた。
 二人はその生き物をみて思わず息を飲んだ。三センチばかりの大きさだったが、湿ってどす黒く光っている細長い体には一本、金色の筋が走っていた。
 頭とおぼしきところには昆虫のような赤く光る眼がついている。口を開くと不揃いな尖った牙がぎっしりと生えていた。手足はなく、ただ床の上にのたうっている。小さいくせに異常なほど精気を放っていた。
「……なんだ、これは」
 祐一がつぶやく。あまりの不気味さに玲子は声も出なかった。これではエミュは本体を見せないのも当たり前だ、ぼんやりとそう考えていた。
(そうだ、ビンに戻さないと)
 気がつき、玲子は片手に持った薬ビンをそろそろと小さな生き物に近づけて行った。ぬらりと光る生き物はその場にじっとしている。うまく回収できそうだった。
 横合いから祐一がタバコの火をそれに押しつけた。キイイ、と眼を持つ小さい蛭は苦しがり、暴れ出した。
「なにするの!」
「殺してやる。こんなもの、いないほうがいいんだ」
 肉の焼ける臭いがする。何度も何度も祐一は小さい生き物にタバコの火を押しつけた。白い煙と悪臭が部屋中にたちこめる。
「とどめだ」
 無残にも焼けただれ、ぐったりとした蛭に祐一はもう一度、力をこめてタバコの先を押しつけた。
(よくもやったな)
 エミュの思念が響き渡った。身をよじり、焼け漕げた彼の本体はタバコの火を押しつける祐一の手に食いついた。
「なんだ、このやろう」
 驚いた祐一が火のついたタバコを取り落とした。ジュッ、とフローリングの床が焼けこげ、火が消えた。
(ユルサナイ)
 たくさんの牙を立てて、祐一からエミュは血を吸い込んでいった。久しぶりの感覚に我を忘れた。
(ハライッパイ)
「だめ! 離れて!」
 誰かが彼を止めていた。もうエミュにはそれが誰か分からなかった。
(ジユウ)
 すでに彼を律していた呪縛は外れていた。あるじはもうこわくはない。おそれるものは何もなかった。
「離れろ、ちくしょう」
 大量の血を吸い込み、エミュの体は十センチ程度に膨れ上がっていた。それ
でも飢えはおさまらなかった。どんどんエミュの本体は膨れていく。三十センチほどになったとき、ようやく玲子が包丁を持ち出して鋭い牙をくじり、祐一から蛭を引き剥がした。
(ヒドイ)
 蛇のように鎌首をもたげ、あの時と同じ赤い目が玲子を睨む。祐一は真っ白い顔をしてその場に倒れていた。
「ジャマスルナ」
 軋むような声が響く。ビンから出してしまったからもうおとなしくはならない。逆手に包丁を持って、玲子は彼と向き合った。
「こないで」
 この間と同じように玲子は命令した。だが、無駄だった。
「ジユウ」
 高らかに赤い目とたくさんの牙を持った巨大な蛭は宣言した。
「ソイツキライ。イヤナヤツ」
 この生き物にもう理性はない。彼女のいうことは聞かず、ただ自分のしたいようにするだけだ。なまじ意識を持ってしまっているだけに、止められなければ大きな被害を引き起こすに違いなかった。
「エミュ、落ち着いて」
 玲子の言葉を聞いて、かれは嬉しそうに赤い目を光らせた。
「ナマエ。トクベツ。ミンナトチガウ、トクベツ」
 最初から分かってはいたが、説得は無理だと玲子は改めて思い知らされた。祐一の次は玲子が犠牲になる。
 それならば、と彼女は腹をくくった。少し口の悪い、あのよく気がつく彼はもうかえってこない。
(好きだったのに)
 突然に玲子は気がついた。もう遅かった。
「オマエカラ。ハライッパイ」
 殺意を察知し、蛭が耳障りな声をあげた。睨み合いながらじりじりと互いに間合いを詰めて行く。
 追い詰めた、と玲子が思った時に蛭が飛んだ。払いのけようととっさに出した彼女の腕に、シャツの上から食いついてくる。だらん、と二の腕にぶらさがり、その重みで玲子は床に座り込んだ。
「つうっ」
 痛さをおさえて祐一の時と同じように包丁の刃をくじり入れる。しかし今度は相手もかなり深く牙を立てていて、玲子は自分の肉を切るばかりで蛭を外す事はできなかった。
(ハライッパイ。モット)
 さらに蛭は大きくなり重くなった。玲子は目が霞み、床に倒れ込んだ。
(死にたくない)
 手当たり次第に蛭に包丁で切りつける。それでもあたりが血で汚れるだけで蛭は離れようとはしない。玲子は無我夢中で起きあがり、視界に入った赤い目に向かって包丁の先を突きたてた。
 巨大な蛭は嫌がり、牙を離した。もう一つの目にも玲子は包丁を突き立てる。
「ミエナイ」
 きいきいと喚く。もはや五十センチ近くなった蛭を、玲子は包丁で真っ二つに叩き切った。切り口から血が吹きこぼれ、玲子の顔に飛ぶ。壁も床も真っ赤に染めて、彼女は逃げ回る蛭を切り刻んだ。シャツもジーンズも血まみれだった。
(もういない)
 エミュはもういない。これは彼の残骸だ。切り裂かれても動く頭を玲子は包丁の先で突き刺し、床に縫いとめた。きいっ、と牙が軋んだ音を立て、それから動かなくなった。泣きながら玲子は包丁を外し、ぴくぴく動いている尾の方を切り裂きにかかった。
(アルジ)
 上から誰かが、夢中で血まみれの作業を続ける玲子に呼びかけた。玲子が見上げると空中に何かが浮いていて、それはやがて人の姿になった。
「エミュ!」
(オネガイにはごほうびが必要なんだ)
 初めて玲子と会った時のように、少し困ったような顔でエミュは笑っていた。
(あんたの時は持ち出しばかりだった。それでもいいと思ってはいたんだが、最後にとんでもないものをもらったよ)
 晴れ晴れと彼は笑った。
(俺はもうあるじがいなくても平気なんだ。あんたじゃなければできなかった)
「どこへ行くの」
 髪も顔も血で汚して、玲子は宙に浮かぶエミュを見上げた。
(願えばかなうんだ。し乃さんの言った通りだったよ)
「待って!」
 空中からエミュは愛情をこめて元のあるじに笑いかけた。
(さよなら、楽しかったよ)
 そう言って彼は何度も玲子が見たようにその場でかき消えた。ただし、これが最後だった。

    

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