アルピニアの広場

 キール・デリはアルピニアの町にいた。これから二週間の間、この町をあげての大掛かりな祭りが行われる。古いつくりの町の広場にはたくさんの大道芸人が集まり、ほうぼうからやってくる見物人を相手に商売を始めるのだ。そのありさまもこの祭りを構成する重要な一部分であり、キール・デリもけっこうな額の売上を見込んでそこに参加することにしたのだった。
 いい場所を探し、だだっぴろい広場をうろつく。たいていの場所は何年も祭りに参加している古参に取られていて、新参者の彼にはなかなかよさそうなところはなかった。それでも南側のはじっこにようやく使えそうなところを見つけ、彼はそこに居つくことにした。
 リュックからブラッキィを降ろし、石畳に座って楽器ケースのふたを開ける。と、そこへ声をかけてきた人間がいた。彼と同じくらいの年恰好の若者である。背中には同じような形だったが、彼よりももっと大きい楽器ケースを背負っていた。
「一緒にやらないか」
 キール・デリは相手の持っている楽器ケースをよく眺めた。
「ギターか」
「そうだ」
 人懐っこい表情で相手の若者は笑った。
「少し前に着いたんだが、ジャグラーばっかりで楽器を持っているヤツがいないんだ。せっかくきたのにつまらない。それに二人なら大きい場所が取れる」
「なるほどな」
 キール・デリの表情から許可が出たと見て、若者は楽器を背から降ろし、その隣に座り込んだ。ブラッキィがすかさず誰何する。
「おまえだれだ」
 急に聞こえた声にびっくりして、若者はきょろきょろとあたりを見回した。しかし周囲には彼に注意を払うような人間は誰もいず、視界に入るのは小柄な黒ウサギだけである。
「今、なんか聞こえたよな」
 キール・デリは楽器を出し、ついでリュックから野菜くずを引っ張りだしたところだった。ブラッキィはそれに気がつくとカットしたにんじんスティックを拾ってかじりながら、若者の前でもう一度聞いた。
「おれはぶらっきぃ。おまえだれだ」
「……俺はリックラック」
 度肝を抜かれた顔で答える。そして隣のキール・デリにたずねた。
「あんたは?」
「キール・デリだ」
「そうか。まあよろしく頼む。ところでなんでこのウサギはしゃべるんだ」
「スピリットだ。道端で拾った」
 地上からすかさずまた声がした。
「おれにはよろしくっていわないのか。それにひろったんじゃない。きーる、なんどいったらわかるんだ」
「そうなのか」
 キール・デリが答える。
「そうらしいぞ。よく知らないが」
 リックラックはじーっとブラッキィのことを見て、改めてこう言った。
「よろしくな、ウサギちゃん」
 ブラッキィが猛然と腹を立てたのは言うまでもない。
「こいつしつれいだぞ。おれのことをうさぎあつかいだ」
「違うのかよ」
 困った表情のリックラックに、キール・デリは笑いながらこう言った。
「名前を呼んでやってくれ。ブラッキィ、だ」
 困惑したまま、リックラックはまた黒ウサギに声をかけた。
「よろしくな、ブラッキィ」
「それでいいんだ」
 ころりとブラッキィは機嫌を直し、違うにんじんスティックを拾ってかじりだした。キール・デリのほうは楽器の調整が終わっており、立ち上がってもう弓を構えていた。
「先にやろう。分からないと合わせられないだろう」
 ブラッキィが違う野菜くずを拾う。今度はきゅうりの切れっぱしだ。
「実はヴァイオリン弾きとはやったことがない」
 リックラックはブラッキィの隣でこう白状した。弓を引こうとしたキール・デリの手が止まる。
「ない? 一度も? ヴァイオリン弾きならそこそこいるじゃないか」
 いやー、とリックラックは照れくさそうに笑った。
「俺、路上初めてなんだよ。ライブハウスなら何度かあるんだけど。だからあんたに教わろうと思ってさ」
 キール・デリはあきれてしまった。
「じゃあ飲み屋もないんだな」
「そんなところも行くのか」
 ふう、とキール・デリはため息をつき、楽器をまた構えた。
「まあいい。でも弾き語りだったら出て行けよ。俺は好きじゃない」
「違うから大丈夫だ。それより早くやってくれ。聴きたいんだ」
 リックラックは期待に満ちた表情でこう言った。キール・デリは横目で彼を見やり、それから普段どおりに演奏を始めた。

 数日後、黒ウサギを連れた二人組は町中でそこそこ評判になっていた。リックラックの楽器はフラメンコギターであり、キール・デリのヴァイオリンとよく合った。よく響く早弾きのギターと艶やかなヴァイオリンの高音に、町を訪れる人々は足を止めるようになっていた。
「じゃあインタビューの後、合図をしたら演奏をお願いしますよ」 
 有名な祭りなのでテレビ局の取材も来る。そんなわけで二人は昼のニュース番組の最後に、ちらっと映ることになったのだった。
「キール、テレビだぞ、テレビ」
 リックラックの興奮っぷりは大変なものであった。一方のキール・デリは浮かぬ顔だ。
「俺は別にいいよ」
 シャトーブリューン時代の苦い記憶が呼び覚まされる。昼のニュースならあの連中も見るだろう。そう思うと手放しで喜べないのだった。
「本番いきますよ」
 合図が出される。彼らの前で女性レポーターが何やらしゃべっている。そしてカメラとともに後ろに下がっていき、楽器を持って石畳に簡易イスを出して座っているリックラックにマイクを突きつけた。
「では今回、こちらで評判になっているユニットのお二人に話を聞いてみたいと思います」
 キール・デリは端のほうにヴァイオリンを持って立っていた。リックラックがしゃべっている間に、ビーン、という音を立てて楽器に異変が起きた。
「いや、今回は楽器を持っている人間が二人しかいなかったんです。それでたまたま僕が彼に声をかけて……」
 カメラに映っているのは分かっているが、仕方なしにキール・デリはしゃがみこんでリュックから替えの弦を取り出した。じゃら、という音を立てて開いた襟元からチェーンが出てくる。彼はプレート本体が出てくる前にチェーンをシャツの中に戻し、ついでにボタンをきちんと留めた。それから弦の交換にかかった。
「ではこちらの……」
 女性レポーターが彼に話を振ろうとした。キール・デリはリックラックにマイクを戻そうと小声で言った。
「リック、弦が切れた」
 レポーターも異変に気づいた。彼らの演奏で番組の終了になる。レポーターはカメラを自分に向けると、祭りについての感想とインフォメーションを入れて時間を繋いだ。
「OKですか」
 カメラの外れた隙に、ついてきたテレビ局のスタッフが彼に声をかけた。キール・デリはうなずく。なんとか間に合った。ポーン、とリックラックが自分の楽器の弦を一本だけ鳴らし、彼は慎重に音を合わせた。
「では最後にお二人の演奏でお別れしたいと思います。お祭りの期間は二週間、大変活気のあるお祭りなので、みなさん一度足を運んでみてはいかがでしょうか。それではまた明日、お会いしましょう」
 何事もなかったかのように、キール・デリは立ち上がって楽器を弾きだした。ついでリックラックがゆっくりと追いかけてくる。それから派手に主旋律を展開しだした。キール・デリのヴァイオリンは後ろに下がり、華やかなギターの音を支えている。カメラは彼らを写しながらゆっくりと後ずさり、やがてカットの声がかかった。
 放送が終了しても見物人はいなくなるわけではない。二人はそのまま一曲弾き続けた。終わった後にはテレビ局のスタッフほか集まった人々からも盛大な拍手があった。

 この五分足らずのキール・デリのテレビ出演は各方面から様々な反応を呼ぶこととなる。最初はザイナスだった。彼はコンサート旅行の移動中に、昼食を取ろうと立ち寄った食堂のテレビでこの放送を見た。
「フラメンコギター? キールのやつ、面白そうなことしてるな」
 向かいで同じように食事を取っているマネージャーに声をかける。最近忙しすぎて回らなくなったため、数ヶ月前に雇ったのだった。
「スミスさん、俺、スケジュールどうなってる? このあとどこかに休みが入るかな」
 マネージャーはサンドイッチをかじりながら大判の手帳を取り出し、中を開いた。
「二週間後にソレルの大ホールでの調整があります。十日後に一日から二日ならなんとか入りますよ」
「じゃ空けて。俺、アルピニア行ってくるよ」
「分かりました。戻らず直接ソレルに行きますか」
 うーん、とザイナスは少し考え込んだ。自宅に戻るよりは近かったが、荷物を持っていくのはかったるかった。しかし休暇中に楽器以外の仕事道具を持ち歩くのはごめんである。
「直接行く。荷物はホールに送ってもらえるかな」
 分かりました、とマネージャーは答えた。
「なんでまた急にアルピニアに?」
 ザイナスは食事の続きにとりかかった。
「友達が行ってる。たまには顔を見に行こうと思ってね」
 付け合せのポテトサラダをつつきながら答える。その手前にはトマトソースのスパゲティが乗っていた。マネージャーがへえ、という顔をする。
「あいつ捕まらないんだよ。だから見つけたらこっちから出向かないといけないんだ」
 ニュース番組は終わり、今日の天気になった。食事の終わったザイナスとマネージャーはまた、車に乗って移動するために立ち上がった。

 次はファンタジアにある建物のカフェテリアである。巨大な壁掛け液晶の画面で、ホーバーとジェナスは見知った顔を見つけた。
「キールさん、テレビ出てるよ」
 ジェナスに言われ、ホーバーは見ていた雑誌から視線を上げた。
「本当ですね」
「こういうことしてたんだ」
 ジェナスが感心したようにいった。
「これじゃまともに食事は取れませんね。しかし丈夫な人だなあ。あんなに栄養状態が悪くてこんなことしてたら、普通は倒れるんですけど」
 ホーバーは画面を見ながら言った。ジェナスが答える。
「サラティア社製だからじゃない? あそこって工業用がメインだもん」
「そうかもしれないですね」
 今、このサイモン財団遺伝子研究保存センターの主要メンバーはこの二人しかいない。ルドワイヤン博士が旅行でいないため、二人ともだらけきっていた。この時期、特に急ぎの仕事が入ってこないことも、彼らがだらける理由になっていた。
「伯爵ってどこ行ったんですか」
 画面から流れる音楽を聞きながらホーバーが言った。ジェナスがあくびをしながら答える。
「ロニセラに行くって言ってたよ」
「ロニセラ?」
「そう。キールさんが言ってたやつ。本物の吸血鬼を見に行くんだって」
 ホーバーは少し心配になった。
「あの人、山歩きなんかして平気なんですか。私も話を聞きましたが、確かとんでもない山奥だったと思いましたよ」
「うん」
 ジェナスは眠そうに目をしばたたかせた。
「だから端末持っていってもらった。衛星のやつ。ちょっと高いけど倒れて見つからないよりいいと思って」
 ホーバーがまた雑誌に視線を戻しながら話を続けた。
「あー、あれですか。あれならどこにいても大丈夫ですね」
「うん」
 それにしても、とそのままの姿勢でホーバーが言う。
「なんでまた急に旅行に行こうと思ったんでしょうね。そんなに気になるんですかねえ」
「僕も思った。伯爵が休暇を申し出たのって初めてだったから。僕ずっとここにいるけど、たぶん十六年間で初めてじゃないかな」
 カフェテリアの液晶画面は天気予報に変わった。ホーバーもジェナスも椅子から立ち上がる。
「じゃ、ぼちぼち戻りましょう。何にもすることもありませんが」
 ジェナスは伸びをして、どうしようかなあ、と思案顔になった。
「ロッキーと草刈りでもしようかな。電話番よりましだし」
「カラットとしたらどうです。電話は私が取りますよ」
 ホーバーがからかうとジェナスは真っ赤になった。
「いいよ、もう。先に行くから」
 リンダが郵便物を持ってつい、と床を滑ってやってくる。ホーバーはそれを受け取り、ジェナスの代わりに事務室に向かった。

 もう一件はイヤホンで音楽を聞きながら道端を歩いていたケンタである。彼は電気屋の店頭に展示してあったモニターの前で、あー、と言って立ち止まった。
「キールさんだ」
 まんまと乗り合いバスで目の前から逃げられてしまったことは記憶に新しい。そしてこの少年は、今までにそんな間抜けな目にあったことはなかった。
「ふーん、アルピニアかあ」
 番組を最後まで見てインフォメーションを確認し、交通費と日数を計算する。最終日かその前か、とにかくそのくらいには間に合いそうだった。
「今度こそ献血してもらおうっと」
 彼はきびすを返すと、商店街を抜けた先にある地下鉄の駅へと歩いていった。

 今度の場所はイノンド工業地帯の中にある、サラティア社本社工場の社員食堂に移る。そこでは若い女子社員達が数人、ランチ時にテレビを見ながら騒いでいた。
「ねえねえ、ちょっとよくない?」
「どっちよ。ギター? ヴァイオリン?」
「ギター」
「えーっ。ヴァイオリンのほうがいいって」 
 趣味わるーい、だの、めんどくさそう、だのと二人とも勝手なことを言われたい放題である。そのうちヴァイオリンの弦が切れ、キール・デリが地面にしゃがみこんだ。
「あれ?」
 テレビを見ていた一人がキール・デリの動作に疑問を持った。そのまま口から出てしまう。
「彼、ウチの製品?」
「えっ?」
 そこに居合わせた女子社員達が全員そちらを見た。疑問を提出した彼女は、画面を見続けながら同僚達に答える。
「ヴァイオリンのほう、プレートついてるよ。しかもウチの。ウチの会社、こういうのつくってたっけ?」
 女子社員達がざわつく。やがてなんでそう思ったのかという声が上がった。
「しゃがんだ時にチェーンが見えた。あれ特殊だから慣れればすぐ分かるよ。毎日見てるもん」
 フォークをかみながら答えた彼女の仕事は、個別に刻印のされたプレートの検品である。彼女のチェックが終わらないとサラティア社の亜人種達は出荷されないのだ。
 そこへ営業本部長が通りかかった。いつもは本社ビルにいるのだが、今日は取引先で工場見学の申し出があったのでこちらまで来たのである。
「何を騒いでる」
 声をかけられ、少し年かさの女子社員が言った。
「あの、ちょっとお聞きしたいんですが」
 これまでの疑問といきさつを説明する。もう画面は変わってしまっていた。笑い飛ばすかと思えば、営業本部長は立ちどまって考え込んでしまった。
「ウチのプレートのチェーンなんだね」
 はい、と疑問を提出した女子社員は答えた。さらに営業本部長は女子社員達に質問を続けた。
「年は」
「二十歳くらい? もうちょっといってた?」
「二十一〜二くらいじゃない。でも十代じゃないよね」
 うんうん、と一同がうなずく。営業本部長はもっと難しい顔になり、やがて「ありがとう」と言ってその場を立ち去ってしまった。女子社員達の疑問には答えずじまいである。
「え、結局どうだったの」
「わかんない」
 始業のベルが鳴った。サラティア社の女子社員達はあわてて食堂の椅子から立ち上がると自分の財布を握り、ばたばたと持ち場に戻っていった。

 三十分後、女子社員達から話を聞いた営業本部長は、問題の録画映像を持って自分のデスクから社長室に直通電話をかけていた。
「ええ、もしかしたら#5じゃないかと……あれは失敗して処分になったはずですが、どうも不明な点が多すぎて」
 電話の向こうの声は言った。
「データが残っていただろう。その後も継続してプロジェクトは行ったはずだ。実際#11で運用になった。何を問題にしている」
 営業本部長はそれでも引かなかった。
「#5だけ主要なデータが抜けています。抹消されているんです。エンライがデータを持ち逃げしたとの噂でしたが、もしかして#5の段階でプロジェクトは完成していたのではないでしょうか」
 沈黙があった。
「なぜそう思う」
 営業本部長は答える。
「確かに#11は運用になりました。しかし本来の用途とはかけ離れたものです。耐用年数が短すぎて本来の用途には使えなかった。もし#5の段階で完成していればマン・ダミーの比ではない利益が上がりましたし、軍用輸出品のメインになったはずです。この青年が#5ならば、捕獲するべきではないでしょうか」
「映像を見せろ。とりあえずはそれからだ」
「分かりました」
 営業本部長はデスクから録画映像を社長室に転送した。それから電話番の女子社員に声をかけ、今日はもう戻らない旨を伝えて部屋を出た。

 その映像はさらに数日後、サラティア社の社長によって子会社の営業、クリストファー・リンデンバウム氏のもとに運ばれる。出社してきたリンデン氏は社長の訪問を告げられ、ただ驚くばかりであった。
「なんですか、いきなり」
 親会社の社長が来るというので、彼の上司は朝からばたばたと室内の掃除などしていた。二人しかいない女子社員に、花を飾れだのトイレのチェックをしてこいだの無用なことばかり言いつけ、彼女らの怒りを買っていた。
「見てもらいたいものがある」
 サラティア社社長とリンデン氏は別室で話をしていた。といってもたいした部屋もないので、パーテーションで仕切っただけの狭苦しい商談室である。
「何ですかね」
 テーブルの上には二人分のコーヒーとラップトップのマルチプレイヤーが置いてある。プレイヤーは社長が持参してきたのだった。中にはもちろん、あの映像が入っている。
「エンライの息子に会ったって聞いた」
 社長はプレイヤーのスイッチを入れ、キール・デリが映っている場面で止めた。
「耳が早いですね。いい子でしたよ」
 リンデン氏は苦笑した。いったいどこから聞き込んできたのかと思ったのだ。
「こいつだったか確認してもらいたい」
 リンデン氏はじっと静止画像を見つめた。勝手にボタンを操作して映像を先に進める。そしてまた巻き戻した。
「ちょっと分かりませんねえ。年恰好はこんなものですがね。だいたいなんでそんなことが気になるんです」
 社長は言った。
「プレートがあっただろう」
「そうでしたかね」
 社長は問題のシーンで画像を止めた。
「これですか。若い人の間ではこういうアクセサリーが流行ってますからね。それじゃないんですか」
 リンデン氏は人当たりはいいが自分の感情は表に出さない、営業そのものの顔で答えた。
「で、これがなんですか」
「スミノフが#5じゃないかと言っている。検品担当がこのネックレスチェーンはプレートのものだと断言したそうだ。だが、うちにはこんな製品はない」
「#5? 本当に?」
 そうだ、と社長は言った。
「お前とエンライのチームで開発を進めていたやつだ。エンライの息子ならば#5である可能性もある。もしこいつが#5ならば、本社に戻ってお前にエンライの続きをやってもらう。それなりの役職と年収も用意しよう」
「ご冗談を」
 さすがに声のトーンは高くなった。しかし、まったく表情に変化はない。
「私に彼の代わりは務まりませんよ。それほど優秀ではありません。それに#5はエンライが自分で処理槽に沈めました。社長もごらんになったでしょう」
「エンライ以外、誰も発生時からの#5の姿を見ておらん。あれが偽物だったとしても誰にも分からんのだ」
 いらいらと社長は言った。
「そりゃあ、ねえ。誰だって失敗したくないですからね。無用な刺激はご法度ですから」
 リンデン氏はこう言った。担当者に人払いされてしまっては研究対象に近づけない。たいていは暗視カメラなどを設置しておくのだが、エンライ氏はその映像を他の者に公開しなかった。さらに社長は続ける。
「当時、お前がエンライを逃がしたって噂があった。データの持ち出しも手伝ったとな。それはどうなんだ」
「いまさらどうなんだって言われましてもねえ」
 のらりくらりとリンデン氏は言った。
「その責任を私に押し付けたのは社長じゃないですか。私は知らないって言いましたがね。実際あの日、会社に来てから知ったんです。それにそんな昔のことを言われたってもう分かりませんよ」
 社長はヒートアップしてきたようだった。だがつとめておさえて、リンデン氏に再度質問を投げかけてきた。
「それで、こいつはエンライの息子なのか」
「いやー」
 リンデン氏は映像を再生し、途中で止めてまた最後まで見た。
「私が会ったのは『ラフィーネ』なんでね。これじゃ分かりませんな。けっこうな美女でしたよ」
「お前はまだあんなところに通ってるのか」
 社長のあきれたような声が響く。ええ、とリンデン氏はすまして答えた。
「定時に帰って気に入った飲み屋に通って、こういうのはいいもんですよ。私は今の生活を変えたくないのでね。もし彼が#5であったとしても、社長の申し出はお断りします」
 そして廊下に出て隣の部屋に声をかけた。
「社長がお帰りになる。お見送りを」
 彼の上司と女子社員がやってきて不機嫌な社長を連れて行った。テーブルの上には忘れられたマルチプレイヤーがある。リンデン氏はそれをもう一度再生して最後まで見て止めた。
「また出世を棒に振ってしまったよ」
 広げてあるマルチプレイヤーをたたみ、小脇に抱える。そして自分のデスクがある部屋に戻り、もう一人の女子社員にそれを本社行きの社内便に乗せるように頼んだ。

 最後はシャトーブリューン・フィル・ハーモニーのコンサートマスター、ジェームズ・ジョンソン氏の自宅である。今日は休日であり、妻は子供二人を連れてショッピングに出かけてしまっていた。それなのでジェームズ氏は自室のソファーに転がりながら、機嫌よく昼酒をたしなんでいた。
 つけっぱなしのテレビからうつらうつらした耳に音楽が聞こえてくる。賑やかなギターと気持ちよく伸びるヴァイオリンだ。その聞き覚えのある音に、ジェームズ氏ははっと目を覚ました。
「あの子じゃないか」
 十七くらいでシャトーブリューンにやってきて、二年で上層部ともめごとを起こしていなくなってしまった。ちょうどジェームズ氏が他国に出張していていなかった時であり、彼は自分がいない時期に起こったこのできごとに、うさんくさい臭いを嗅ぎ取っていた。
「うまくなったなあ」
 小生意気な若造ではあったが、十七才のヴァイオリニストの天性のセンスと熱心さにはみな一目置いていた。だから彼はシャトーブリューンに戻ってきた時に、他の数人の団員から「なぜあの時JJはいなかったのか」と責められたのである。公には出なかったが、出自はともかく出来る奴をむざむざ手放すのはただのバカだと、そう上層部を批判する声もあった。
「もったいなかったな、本当に」
 浮つくギターを支え、しっとりと背後にヴァイオリンの音が響く。ギターのほうはまだ未熟だ。迷わぬように、表に出ないように先導し、ヴァイオリンはギターに華を持たせる。ギターの若者にとってこのテレビ出演は巨大なチャンスなのだ。
「本当に、うまくなったんだな」
 番組が切り替わる。ジェームズ・ジョンソン氏はため息をつき、またソファーに寝転がった。

 

   

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