1.山城の夏休み(前編)

 

 キール・デリが山城に着いたのは昼前であった。背中には黒うさぎのブラッキィが入ったリュックサック、右手にはヴァイオリン、そして足元は汚いスニーカーと、いつもの格好である。黄色い工事用のテープがはためく崩れかけた門の横からそこに空いた大穴を抜け、明るく開けた中庭に向かう。彼がこの場所に来るのは二回目であった。前回は必要があって、そして今回は呼ばれたのである。
「あれ?」
 中庭には誰もいなかった。彼をこんな場所に呼びつけたこの城の主もいない。さんさんと陽が降り注ぐ、荒れ果てた広い庭が広がっているばかりであった。
「なんでいないんだ」
 着いたらとりあえずここに来いと、彼は連絡を受けていた。ブラッキィも背中からたずねてくる。
「きーる、かんりにんさんはどこだ」
「へんだな」
 ブラッキィが管理人と呼ぶのは、この城の主である吸血鬼、ルイ・L・オラディア公のことである。ひょんなことからキール・デリは彼と知り合いになったのだったが、どうにもこの人物は彼に無茶ばかり言ってくるのであった。吸血鬼だからなのかもしれない。しかし、そもそもの性格に問題があるようにも、キール・デリには思われるのであった。
「昼は寝てるとか……そんなわけないな」
 キール・デリがオゼイユで入院していた時、オラディア公はなぜかその病院内にいたが、昼も夜もたいして関係なく元気に病院内をうろついていた。棺桶なぞも必要なさそうであった。いつでも騒がしく担当医のホーバーに迷惑をかけまくり、過労でよく倒れていたルドワイヤン博士をかついで、たびたびドクタールームに登場していたのである。
「じゃあ中か」
 キール・デリは中庭から、同じように崩れかけた城そのものに向かった。一階の大ホールには入ったことがある。その時の彼はオラディア公の不興を買い、真っ暗な中で幽霊を相手に一晩中楽器を演奏させられたのであった。
「ここ、嫌なんだよな」
 最後に登場した女吸血鬼をキール・デリの助力のもとにオラディア公が倒さねば、二人ともこの世にはいなかったであろう。その時のキール・デリは、オラディア公のことをさすがに伝説の人物だと思ったものだったが、実際に付き合いがあるようになると、まことに困った人物でもあるのだった。
「きーる、かんりにんさんだ」
 オラディア公は城へ向かう彼の背後から登場した。何か作業をしていたらしい。彼よりも背中にいたブラッキィのほうが見つけるのが早かった。キール・デリは振り向き、金髪と青い目という、派手な顔立ちをしたこの城の主を発見した。
「もう来ていたのか、半人。早かったな」
「どこにいたんだ」
 年恰好はキール・デリとたいして変わらない。ただし、彼よりも五百歳ほど年上である。
「厨房だ。久々に鍵を開けたが埃がすげえ。おまえら使うんだから掃除しろ」
「……分かった」
 来て早々これである。もっともオラディア公には数百年にわたって厨房は関係ないから、キール・デリが片付けるのも仕方のないことではあった。そもそも彼が厨房というものを思い出しただけでも僥倖という可能性だってある。
「ザイナスは一緒じゃないのか」
「仕事が終わらないから後から来る」
 彼らの友人であるザイナス・カミングが来るのはおそらく夕方であろう。キール・デリはそう思っていた。なぜならザイナスはこの山城に来るために、一ヶ月もの間休日なしで仕事に飛び回っていたからである。
「何日いるんだ」
「五日間って聞いたぞ」
 キール・デリもザイナスも同じヴァイオリン弾きである。しかし片方は流しでドサまわりを、片方は各地のホールでの演奏会やメディアでの仕事をメインにしていた。もちろん、ドサまわりのほうがキール・デリである。
「それ以上は無理だってさ。しょうがないけどな」
 話しながら歩いているうちに、厨房の入口についた。キール・デリは中を覗き込み、顔をしかめる。
「これ、使えるのか」
「昔は使ってたぞ」
 厨房はかなり広かったが、いたるところ埃まみれであった。キール・デリは楽器とリュック、それに中に入っていたブラッキィを入口横の物置台に置き、オラディア公に続いて中に入った。薄暗い中、埃とよどんだ空気が彼らを包む。
「換気しないと無理だ。窓はどこだよ」
「あそこだ」
 オラディア公が指差した先には、たしかに小さな明りとりの窓が五つ、壁のかなり高いところに横に並んでいた。しかしがっちりと鎧戸が閉められ、そこも動かしたら埃が舞いそうな雰囲気である。だがこのままでは真っ暗でもあるので、オラディア公がどこからかそれ用の、長いカギのついた棒を持ち出して器用に窓を開けていった。
「ドアがあるな」
 キール・デリは食堂に続くらしい、大きな正面のドアを見つけた。鍵はかかっていない。城内でも風が抜ければ違うだろう。彼はそう思い、ドアの取っ手を思い切り引っ張った。
「バカ、そこ開けるな!」
 窓を開けていたオラディア公が言うのと同時に、両開きのドアが開いた。そして風ではなくすさまじく大量のコウモリがドアから飛び出し、キール・デリとオラディア公と、それからそこにあるありとあらゆるものにぶつかって、城の外へと逃げていった。

 厨房の掃除は夕方までかかった。コウモリのおかげで埃は少し減ったが、ドアを開けたために糞の臭いが室内に充満し、その片付けもしなくてはならなくなったからだった。
「まったく、バカが」
 日が暮れてきたので鎧戸はまた閉まっている。まだ明るかったが、これ以上暗くなったら照明が必要だった。
「悪かったよ」
 それなりに室内はきれいになった。かまども、古い食器やなべも案外と使えそうであった。二人は中央に作りつけられた大きな石のテーブルのまわりに座り、オラディア公が自室から出してきた缶ビールを空けているところだった。
「ザイナス、遅いな」
 そろそろ日が落ちる。オラディア公が顔をしかめた。
「あんまり遅いとやばいな。ここらは危ねえんだ」
 ブラッキィもテーブルの上で、キール・デリが持ち込んできたキャベツをかじっていた。だんだんと食べるペースが落ちてきている。眠くなったのである。
「危ないって何だ。オオカミでも出るのか」
 キール・デリが聞くと、三缶目のビールを空けながらオラディア公が言った。
「いや、野犬とバカどもだ。オオカミなんかもういねえよ」
 キール・デリはこっくりこっくりやりだしたブラッキィを、テーブルからリュックの中に移した。オラディア公がそれを見ながら立ち上がる。
「ちっと迎えに行ってくらあ。お前は部屋で待ってろ」
「部屋?」
 面倒くさそうにオラディア公は彼を見た。
「もう外をうろつくと危ねえんだ。入ってすぐの、あの大ホール横の通路から隠し部屋があるから、そこで待っていろ。ザイナスが来たらおまえらの部屋に案内してやる」
「分かった」
 キール・デリはブラッキィとブラッキィがかじっていたキャベツを自分のリュックに入れ、楽器とそれを持って立ち上がった。オラディア公について厨房を出る。もうすっかり暗くなっていた。途中の中庭で別れ、言われたとおりに城内に入り細い通路を通って隠し部屋にたどりつく。この城にふさわしい古びた木製の扉を開け、中に入った。
 オラディア公の自室であるらしかった。手前には古い、豪華な織りのカバーがかけられたソファーが見える。古いがきれいにしてあり、そばに小さなテーブルが置いてあった。
「ふーん」
 思ったより居心地のよさそうな室内の奥に、大きな木製の机がある。机の上にはいつのものとも知れない書物が積まれており、その奥にもう一室見える。暗かったが寝室のようだった。室内は明るく、年代物のインテリアの間にエアコンが見える。この部屋だけ、電気が通っているのだ。
「えっ?」
 外は暗いはずである。キール・デリは今そのことに気がついた。天井を見上げると、雰囲気を壊さないように選ばれたデザインの照明がこうこうと光っていた。しかし彼はスイッチをつけた覚えがない。思わず彼は開いた扉から一歩、後ろに下がった。
 とたんに明かりが消えた。もう一度、彼は室内に入った。また照明がつく。なんとドアにセンサーがついてるのであった。彼は出たり入ったりを繰り返し、そのことを確かめた。
「なに遊んでんだ。中に入れよ」
 不意に後ろから声がして彼は大声を上げてしまった。オラディア公とその後ろにザイナス、それに彼のマネージャーがいつの間にか真後ろに立っていた。
「あ、ああ。早かったな」
 あの金張りの剣を持ち、オラディア公は答えた。
「途中まで来てたからな。ただもう戻るのは無理だ。そっちのマネージャーも城に泊まっていってもらう」
 ぞろぞろと全員が室内に入ると、オラディア公はぱたん、と扉を閉めた。ソファーに座ったマネージャーが物珍しそうにきょろきょろと室内を見回す。
「本当に古城の管理人だったとはね。キール君と年もたいして変わらないし、正直信じていなかったよ」
「まあな」
 さらっとオラディア公は流した。剣はそこのテーブルに置き、ザイナスとキール・デリにも楽器を隅に置くように言った。リュックに入ったままのブラッキィにも、籐の洗濯籠のようなものを出してきて部屋の角に置いた。
「ザイナスとマネージャーさんは突き当たりの部屋を使え。半人、お前はこのソファーな」
 なぜかいつでもキール・デリだけは扱いが悪いのである。彼が抗議するとオラディア公は言った。
「客室は二人分だけしか用意してねえんだ。ダニが出ていいんだったら使用人部屋がいっぱいあるぞ」
 それも嫌であった。もっともザイナスのマネージャーをソファーに寝かすわけにもいかない。キール・デリは不承不承にも了解した。
「半人、ビール取ってこいよ。そこにあんだろ。ケースで持ってこい」
「まだ飲むのかよ」
 奥のほう、机のあるあたりの片隅にダンボールがいくつか積まれていた。キール・デリはあきれながらも口の開いたダンボールをひとつ、そこから持ってきた。各自の前に酒が配られ、なしくずし的に宴会が始まる。
「公、お世話になります」
 ザイナスは自分の荷物から何か取り出してオラディア公に手渡した。オラディア公は悪いな、と受け取り、その箱をまじまじと見た。
「ブランデーか。俺、飲まねえんだよな。マネージャーさん、どうだ」
 言いながらキール・デリに、手前のカップボードからグラスを取ってくるように言いつける。そのまま封を切り、来たグラスにどぼどぼと注いだ。
「待て、スミスさん死ぬぞ」
 あわててキール・デリが止めに入る。それほどの量であった。いけねえ、とオラディア公は手を止める。
「いや、いいけどね」
 苦笑しつつ、マネージャーのスミス氏はグラスを口に運んだ。目の前に掲げ、しげしげとグラスを見る。どうにも笑いがこみあげてくるようであった。
「キールくんといい君といい、ザイナスさんのまわりはしっちゃかめっちゃかだな。しかし凄いグラスだ。博物館ものだよ」
「切子だ。今はこの細工はねえよ」
 ザイナスが自分の荷物から大き目の保冷ケースを取り出した。ふたを開け、テーブルに乗せる。中にはローストビーフやらコールドチキンやらが、きれいに盛り合わされて入っていた。
「やっぱりつまみがないと」
 一緒に入っていた使い捨てのフォークを用意し、ザイナスは言った。彼はやたらと大きい荷物を持ってきていたのだが、こんなものを持ち歩いていたのであった。
「なんでこんなの持ってんだよ」
 キール・デリが言うとザイナスはしれっと答えた。
「何もないって話だったし、夕飯にしようと思って家で作らせた。ま、食べろよ」
 ザイナスとキール・デリでその料理はほとんどなくなった。マネージャーはほんの少し、オラディア公はまったく手をつけなかった。マネージャーが彼にたずねたほどである。
「何もいらないのか」
「いらねえ」 
 酒飲みにはつまみを嫌がる人種もいる。オラディア公もそういった人種なのだろうとマネージャーは思った。
「若いのに渋いな」
「そうか?」
 タン、と空になった缶を音を立ててテーブルに置き、彼はこう言った。
「足んねえぞ。もう一ケースだ」
 またもやキール・デリが取りに行く。機嫌を損ねると怖いからである。すっかり使いっ走りであった。
 やがてマネージャーが退場した。オラディア公は古い蜀台を持ち出し、火をつけて通路に出た。マネージャーの先頭に立って道案内をしながら進む。月光が差し込む大ホールを通り、大きなエントランスを抜けて曲がりくねった階段を登る。その先に客室として用意された部屋があった。
「なんてところに住んでるんだね」
 マネージャーはまたもや苦笑したようであった。
「下で山に道路を通す話を聞いたが、そうなればここも少し違うんじゃないか」
「この先に作る予定の飛行場への道路だろう。いらねえよ。俺だって使わねえのに、そんなもん作ってどうする」
 マネージャーが言っているのは、現在計画が進んでいる、尾根を通して走る六車線の高規格道路のことである。この城はその予定地からは外れていたが、予定通り工事が進めば、すぐ近くに眺望が売りのショッピングセンターやホテルが立ち並ぶはずであった。
「電気ねえんだ。悪いな」
 何もなかったが、きちんとととのえられた部屋にオラディア公はその蜀台を置いた。ベッドサイドの懐中電灯をマネージャーは見つけ、その蜀台を返してきた。
「見えないと帰りに困るだろう」
「別に」
 オラディア公は答える。
「みんな分かるから平気だ。ずっといるからな」
「こんなところに?」
「ああ」
 ろうそくの光が、それを持った若者の影を石壁に映し出す。大きくゆらめくその影から本人に目を移した時に、マネージャーは一瞬、全身が粟立つような感覚を味わった。
「どうしたんだよ」
 場所のせいだ、とマネージャーは思った。気がつくとじっとりと額に脂汗をかいている。こんなロケーションにこんな時間だ。何を見てもおかしくはない。
「なんでもない。疲れたようだ。もう寝るよ」
 じゃあな、と言ってオラディア公は去っていった。あの瞬間、マネージャーのスミスは確かにあの若者に怯えたのである。とてつもない恐怖感であった。

 翌朝、マネージャーは山を下っていった。残ったのはキール・デリとザイナスである。まだ朝早いうちから、彼ら二人はオラディア公にたたき起こされたのであった。 
「いつまで寝てんだ。草刈りに行くぞ」
 結局、ちゃんとしたベッドで寝たのはマネージャーだけであった。キール・デリとザイナスはそのままそこで酔いつぶれ、二日酔いのひどい顔でもぞもぞと床から起き出した。
「この部屋も臭えな。おまえら片付けろ」
 昨夜、部屋の片隅には缶ビールが三ケースと半分あった。今見るとそれが全部なくなっていて、ついでにブランデーも一瓶空いていた。ブランデーはマネージャーの退出したあとに、ザイナスが飲んでしまったのである。
「公、まだ六時半ですけど」
 ザイナスが言った。キール・デリも動き出したが、ひどく緩慢な動作である。
「早くやらねえと終わんねえ。午後にはもう荷物が来るんだからよ」
「本当かよ」
 キール・デリは洗濯籠から顔を出したブラッキィを見つけ、室内からリュックを探し出して昨日の残りのキャベツを取り出した。
「さけくさいぞ、きーる。またか」
「うるさい」
 言いながらキャベツを渡す。ブラッキィがそれをかじり出した。
「水ってあるのか」
 言った先にザイナスが自分のカバンを探って緑色の細長いビンを取り出した。もう一本出てくる。ひとつはキール・デリに渡し、ひとつは自分で口を開けた。
「飲めるやつは森まで行って汲んでこい。庭の井戸のはダメだ」
「森?」
 なんてこともないようにオラディア公は言った。
「小道の先に泉がある。それを使え」
「泉?」
「ああ。ここの飲み水は全部それだ。厨房にでかい甕があっただろうが」
 つまり、この城は五百年前からライフラインについてはほとんど変わっていないのであった。どうにも前途多難な様子に、キール・デリとザイナスは思わずオラディア公の顔を見つめてしまった。
「なんだよ」
「いや」
 腹をくくってキール・デリは床から立ち上がった。ひどい目にあいそうなことは覚悟の上である。もっともサバイバル生活は計算外であった。
「何か食料ってあるのか」
 ああ、とオラディア公は答えた。ザイナスもそこから立ち上がって自分の荷物をまとめだした。
「午後に届く。粉と、バターと、砂糖と塩だ」
「あの、公、それだけですか」
 ザイナスが言った。
「それだけありゃ充分だろ」
 期待したほうが馬鹿だと思うべきなのか、それともそれだけでも用意してもらえたと喜ぶべきなのか分かりかねたが、それでもキール・デリは言った。
「まあなんとかなるだろうよ。行こう、ザイナス」
 ザイナスのよこしたミネラルウォーターは空になった。キール・デリはそれの蓋をまたきちんと閉め、右手に持った。
「練兵場の草刈りだっけか。暑くなる前にやるんだろ。とっととやっちまおう」
 言いながらブラッキィも左手に抱える。ザイナスがまたカバンから何か取り出した。
「これじゃ仕事と一緒じゃないか」
 ザイナスはキール・デリに、小さな箱に入ったビスケットのような菓子を渡した。キール・デリは一度ブラッキィを置いてそれを受け取り、確認するとズボンのポケットにしまった。
「作業中に食べよう。ないよりましだ」
 オラディア公が号令をかける。二人と一羽は彼に続き、ぞろぞろとその部屋を出て行った。

 さんさんと陽が降り注ぐ中、三人は大鎌を持って背丈ほどもある草を刈っていた。オラディア公が出してきたのは昔の草刈り鎌、つまり死神の鎌である。要はそれしかなかったのであった。
「あいつ本当に吸血鬼なのか」
「やっぱり何かおかしいよな」
 人間二人はもうすでに作業を放棄していた。いくら若くてもぶっ通しに二時間半もやれば、たいていはあごが出る。オラディア公だけは底なしの体力でいまだ作業を続けていたのであった。
「あれって、ああいう奴らが持つんだろう」
「だけど似合わないぞ」
「なんであんなに似合わないんだ」
 そもそも吸血鬼のくせに陽光の下で元気に動いているのがおかしいのではないか、そうキール・デリとザイナスは思っていたが口には出さないでいた。
「きーるとざいなすはやらないのか」
「もう疲れたよ」
 地面にじかに座ってしまったザイナスが、そこで見ていたブラッキィに答えた。キール・デリのほうはへばりきって、空きビンに詰めた清水を草束の陰で飲み干している。彼は動きの鈍いザイナスと自分の用事しかしないオラディア公に業を煮やし、朝から厨房の甕を洗い、森に行って水を汲んできたのであった。それだってけっこうな重労働だったのである。
 ブラッキィはと言えば、山積みになった草の山を登ったり降りたりもぐったりして遊んでいた。急に日差しがかげったので、ブラッキィは空を見上げる。鬼のような顔をしたオラディア公が、ばかでかい鎌を持ってそこに立っていた。
「てめえらやれよ」
 座り込んだザイナスが、ぼんやりとオラディア公を見上げた。
「もう限界です」
 じろりとオラディア公はキール・デリを横目で見た。あの、意地の悪い目つきである。
「半人、動け」
 キール・デリはそこに置かれた、でかくて重くて切れ味の悪い鎌を見た。まったくメンテナンスがされていなかったので、見かけ倒しで全然切れないのである。三つとも全部そうであった。
「違う道具はないのか。これじゃ駄目だ」
「ねえよ」
 のろのろと彼は地面から立ち上がった。陽はあったが山の中なので気温は涼しい。それだけが救いであった。
「ヘリっていつ来るんだっけ」
 オラディア公が端末を取り出す。ついで確認画面を見てあっ、と言った。
「やべえ。一時かと思ったら十一時だった」
「なんだって?」
 あわててザイナスも動き出した。ふらついて転びそうになるが、鎌を杖にしてなんとか立ち上がる。
「あと三十分だ」
「ええ?」
 ブラッキィが草を踏む音だけが聞こえていた。ザイナスとキール・デリはしばし間を置いたのち、思わず言ってしまった。
「公、そういうのやめて下さい」
「勘弁してくれよ」
「やかましい。てめえらちゃっちゃと動け。やらねえと真っ二つだ」
 自分のミスは全部棚に上げて、オラディア公は鎌を振り上げて二人に発破をかけた。なんともひどい始まりであった。

 ヘリも到着し、冷蔵庫の設置も荷物の詰め替えも後片付けも全部終わって、三人はあの厨房で新しく届いた缶ビールをあけていた。なんとオラディア公は自分の分として、食料やらもらった血液バッグやらに混じって、十ケースもビールを注文していたのだった。
 食堂に続く中央の大きな扉は締め切りである。代わりにオラディア公は横にある、使用人用の小さな扉を開放した。少し遠いのだが、ここから城内の大ホールに抜ける道がある。夜間や雨の時は外ではなく、そこを通るようにとのことであった。
 キール・デリは自分のビールを空けると、届いた食料の確認を始めた。やはり何度見ても小麦粉と塩と砂糖とバターしかなかった。小麦粉の袋は二十五キロの大袋である。冷蔵庫はここではなく、オラディア公の自室近くの場所に設置されていた。電源がそこにしかなかったからである。
「ザイナス、飯どうする」
 朝も昼もろくに食べていない。ザイナスはその時ブラッキィと遊んでいたが、キール・デリに言われてそっちを見た。
「何かあるだろう、キール」
 何かと言われても、ここにある以上のものはないのであった。あとはブラッキィ用のキャベツがあるきりである。それだって八百屋でもらった二枚の葉だけであった。明日にはなくなってしまう。
「ザイナス、食い物はここにあるだけだ」
「えっ」
 オラディア公はそんな二人を見ながら次の缶ビールをあけた。彼には関係のない話だからである。
「あるのは、粉と、砂糖と、塩と、バターとビールだけだ。あとはブラッキィのキャベツ。それだけだ、ザイナス」
 ブラッキィがきいきい声で言った。
「きーる、おれのきゃべつをとるなよ」
 キール・デリは黙った。もちろん料理に使おうと思ったからであった。
「じゃ何か作ってくれ、キール」
 キール・デリは思わずザイナスを見た。オラディア公もビールを口に運びながらそっちを見た。
「……俺?」
 ブラッキィをかまいながら、平然とザイナスは言った。
「ああ。俺はそういうのできないからやってくれ。それだけあればパンか何かできるんだろう。だからそれでいい」
「それでいいって……何言ってんだよ」
 残念ながら、キール・デリは石のオーブンでパンを焼けるような高等スキルは持ち合わせていない。呆然とする彼を尻目に、ザイナスはブラッキィをかまうのをやめてそこから立ち上がった。何か思い出したようであった。
「そうだ、コーヒーを持ってきたんだった。ちょっと取ってくる。明日の朝、飲もう」
 そう言うと彼は厨房を出て行ってしまった。残されたキール・デリに、オラディア公が言った。
「災難だな、半人」
 すべての原因はこいつにあるんじゃないかとキール・デリは思ったが、うかつなことを言って、またオラディア公が剣を振り上げて怒り出すと嫌なので黙っていた。その代わり、こう言ってみた。
「あんた、何かできるか」
 ちらっとオラディア公は彼を見た。
「グリルをつけて消すのはできるぞ。あと湯を沸かすのもな」
 期待した自分が間違っていたとキール・デリはしみじみ思った。ザイナスがあの体たらくでは、オラディア公はもっとできないに決まっている。そもそも食事というものに縁のない者に、そういうことを聞いても無駄なのであった。
 ザイナスがコーヒー豆とミルと自分のカップを持って戻ってきた。作りつけてある食器棚を開け、中をかきまわす。やがて古いがシンプルで上品なカップを二つ、探し出してきた。キール・デリが汲んできた水を惜しげもなく使い、それを洗う。やがてカップはぴかぴかにきれいになった。
「公はコーヒーを飲まれますか」
 ザイナスは上機嫌で聞いた。オラディア公が答える。
「飲まなくもないが、そのカップに半分もいらねえ。受け付けねえんだ」
 ついでザイナスは、キール・デリにもこう言った。
「キールも飲むだろう。ここの水だときっとうまいぞ。食後に淹れよう」
 ザイナスはそれらを調理台の上に整然と並べた。そして言った。
「で、キール。夕飯は?」
 オラディア公がキール・デリに缶ビールをひとつ放った。彼はそれを受け取り、プルタブを開けて一口飲むと言った。かなり強い口調であった。
「いいか、ザイナス」
「なんだ」 
 おっとりとザイナスが答える。
「俺はパンケーキしかできない。ガキの頃に朝、作って食っていたやつだ。だから明日もあさっても、昼も夜もずーっと毎日パンケーキだ。分かったな」
「そうなのか」
 さらに彼は続けた。
「それでいいなら毎日作る。その代わりザイナスは朝、森から水を汲んで来い。いいか、毎日だぞ」
 ザイナスは当惑した表情であった。
「それはいいが、なんでそんなに怒ってるんだ」
 オラディア公がもう一本、ビールを放ってよこした。さっきのは空になってしまったからである。
「文句があるなら自分で作れ。いいか、分かったな」
 一息にそれを飲み干し、キール・デリはザイナスに言った。それからフライパンを引っ張り出し、調理場でがたがたやりだした。
「キール。なんだったら手伝うが」
「じゃあ皿を用意しろ。それとフォーク」
「どこにあるんだ」
「探せよ」 
 オラディア公はしばらくその様子を見ていたが、暗くなってきたので蜀台をいくつか用意して火をつけ、窓と正面の扉を閉めた。それからまた元の場所に座ってもう一本、ビールをあけた。
「まったく大変なやつらだな」
 とことことブラッキィが近寄ってきた。んん、とテーブルの上からオラディア公の顔を見上げる。
「きーるはたいへんそうだが、かんりにんさんはたのしそうだ」
「そう見えるか」
 ブラッキィはうんうん、と首を上下に振った。オラディア公は少し笑ったようだったが、薄暗かったのでよくは見えなかった。
「たまにはこういうのも悪くない」
「そうなのか」
「まあな」
 そしてまたキール・デリとザイナスのほうを見やり、残りのビールを口に運んだ。

 今朝は水甕に半分しか水がたまっていない。キール・デリはパンケーキを焼きつつ、よたよたと水桶を運んできたザイナスを見た。重いのは分かっているが、まともにやれば終わっている時間でもあった。しかしもうザイナスはそこに座り込んでしまって立とうとはしない。
「ザイナス、まだ半分だ」
 オラディア公ならキール・デリの半分の時間で終わる。もっとも彼が水汲みなどするわけがない。練兵場の草刈りだって必要だからやっただけである。
「キール、これ重いんだぞ」
「知ってる。昨日やった」
 うらめしそうにザイナスは、厨房でフライパンを振るキール・デリを見た。頭をひとつ振って立ち上がる。
「今度は料理を習ってくることにしよう」
 ザイナスにまかせるとずいぶんと高くつきそうであった。それよりもまたここに来る気なのであろうか。いろんな疑問を持ちながら、キール・デリは五枚めのパンケーキを焼きにかかった。子供の時は一枚ですんだが、今になるとけっこうな量が必要であった。
「公はどうしたんだ」
「まだ寝てる。部屋から出てこない」
 フライパンを振りながらキール・デリは答えた。
「飯が済んだころに出てくるんじゃないか」
 ブラッキィは中庭に放してあった。キャベツがなくなったからである。とりたてて害になりそうなものも見当たらなかったので、彼はブラッキィに自分で食事を取ってこさせることにした。花壇のまわりは問題なさそうだったからだ。
「じゃあ、また行ってくるか」
 水桶をかついたどころで、ザイナスは中庭に現れた人影に気がついた。後ろ向きで、その明るい金髪が陽を照り返して光っている。下を向いて何やら言っているところを見ると、庭を跳ねていたブラッキィに話しかけているようだった。
「あっ、公。おはようございます」
 ザイナスはそこからオラディア公に声をかけた。くるりとオラディア公が振り向く。同時にザイナスはとんでもない悲鳴を上げてしまった。
「どうした、ザイナス」
 フライパンを持ったまま、キール・デリが調理場から出てきた。そしてこちらも叫び声を上げた。
「なんだよ、おまえら」
 不思議そうにオラディア公は近くまで歩いてきた。ザイナスが桶をかついだまま後ずさる。
「こ、こ、こっ、公」
「どうした。ニワトリみたいになってんぞ」
 もしかしたら少し寝ぼけているのかもしれなかった。キール・デリは硬直したまましばらくその姿を見ていたが、やっと、オラディア公の惨状が何に由来するのか理解した。
「あっ、あの」
 さらにザイナスは後ずさる。キール・デリも逃げ出したかったが、なんとか声を振り絞って言った。
「おい、袋が破けてるぞ。人を殺した後みたいだ」
 オラディア公はやっと気がついたようであった。手に持った血液バッグが破けてその手から胸から足から、全部血まみれであった。そこから伸びるチューブのはしっこは口に入っていたから、庭を散策しながらのんびりと朝食をとっていたのであろう。口元には巨大な牙がむき出しになっていた。
「なんだこれ、すげえな」
 ザイナスが半泣きになって言った。 
「すげえな、じゃありません。着替えて来てください」
 オラディア公は自分が着ているもののにおいを嗅いだ。熱でむわっとした悪臭が立ち上る。
「ダメだな。捨てておくから後で片付けておけ」
「……あの、俺たちがやるんですか」
 ザイナスが言った。キール・デリがため息をつく。
「当然だ」
 そう言い捨てて、オラディア公は中庭を抜けて自室に戻っていった。

 血まみれの衣類と破けた血液バッグは、練兵場のすみっこでキール・デリが燃やすことになった。ザイナスは朝の件だけですでにギブアップであり、せっかくのパンケーキも手付かずでそのまま厨房に置いてあった。
「なんだかなあ」
 朝の陽光はうそのように曇ってきていた。やがて本降りになる。そんな予想がついたのでキール・デリは急いで作業を進めていた。オラディア公も天気予報も、午後は雨になると言っていた。特にオラディア公は、間違いなく雷雨になるからやることはやっておけと言ったのだった。
 曇天のもと、上に刈った草を置き、そこに古いマッチで火をつける。何でもあるのがこの城のいいところだったが、どれもこれも古いのが難点であった。しかし住人ですら何がどこにあるのかすべて把握していないようだったので、使えるものが出てくるだけましなのであろう。
 それにしても、とキール・デリは炎を眺めながら思った。オラディア公のことである。初対面の時とはだいぶ印象が違っていた。オゼイユの病院をうろついていた時はそれなりだったが、今日の抜けっぷりはひどすぎた。
「あいつ、あんなだったっけ」
 女吸血鬼と対峙した時の姿とは似ても似つかない。同一人物とは思えないほどであった。もっとも剣を持てば違うのかもしれない。キール・デリはぐるぐると考えつつ、その辺に落ちていた枯れ枝で焚き火をかき回した。下のほうまで火が回ってきていて、プラスチックと蛋白質の焼けるくさい臭いが立ち上ってきた。あと少しである。しかし臭いがなかなか消えない。
「もしかしてこれ、シルクか」
 いつまでたっても臭いが消えないので、不思議に思った彼が再び焚き火をかき回していると、シャツの血がついていない部分が出てきた。サテン地でもないのに密な光沢がある。かなり上等の生地であった。燃やさずに洗って古着屋に売ったほうがよかったかもしれない。一瞬キール・デリはそんなことを考え、火かき棒に使っていた枯れ枝でそれを引っ張り出そうとした。
「……俺、何やってんだ」
 こんなものは放っておいてもかまわないのである。そもそも洗うのは自分であった。誰かがやってくれるわけではない。
「ザイナス、水汲み終わったかなあ」
 まだ三日目であった。ゴミを燃やし終わったら昼食である。それが終わったら夕食が待っていた。時間があったら楽器も弾いていいはずなのだが、実際は掃除と片付けに明け暮れていて、とてもそこまでの余裕はなかった。
 火が小さくなって黒い炭のかたまりが見えてきた。キール・デリはそれに砂をかけて火を消し、きれいに埋めて隠した。曇っている空を見上げる。なんとか間に合った。
「うへえ」
 ぽつぽつと大きな雨粒が落ちてきた。彼は練兵場から城までのけっこうな距離を、大急ぎで走って戻った。

 外は豪雨であった。ときおりまたたく雷が暗い城内を照らし出す。一階の大半部分を占める中央の大ホールで、キール・デリは一人でヴァイオリンを構えて立っていた。まるであの時と同じである。違うのは暗くても今は昼であるということと、「もう幽霊は出ない」とオラディア公が断言したことであった。
 ザイナスは許可をもらって、ホールから少し奥に入ったところにある収納庫を漁っていた。そこにある楽器から好きなものを選べと言われたからである。こう暗くては見えないのではないかとキール・デリは思ったが、ザイナスはちゃっかりと懐中電灯を持参してきていた。
 ブラッキィは午前中に遊びすぎて部屋で寝ていた。どっちにしろこの時間はたいてい昼寝しているので、放置しても問題はない。キール・デリは弓を弾き、練習を始めた。ずっと水桶だのフライパンだのばかり触っていて、楽器を触るのは久しぶりな気がしていた。
 しだいに興が乗り、次々と曲目を変えて演奏をしていく。十曲ばかりたて続けに弾き、それが途切れた時に石壁によりかかるオラディア公の姿が目に入った。だいぶ前からいたのだが気がつかなかったのだ。
「腕を上げたな、半人」
 キール・デリは答える。
「少しは上達しないとな。二年もたつんだ」
 雷鳴が轟き渡る。稲妻が城内をくっきりと照らし出した。崩れかけた壁面のレリーフ、湿って重たい切石、よどんで沈んだ空気がたまる張り出し、かつては滑らかであっただろう石の床、そんなものの間の壁にオラディア公はよりかかっていた。
「なんでいつまでもここにいるんだ」
 キール・デリはまた弓を取り上げる。そしてまた違う曲を弾きだした。あの女吸血鬼を思い出したのである。
「出て行けねえんだよ」
 彼は途中で手を止め、違う曲に変えた。珍しいことであった。
「なんでだ」
 しばらくの間があった。答えるつもりなどないのかもしれない。キール・デリはそう思い、次の曲を頭の中で物色しだした。その時だった。
「いねえと駄目なんだ」
 思わずキール・デリは楽器を弾くのをやめ、オラディア公のほうを向いた。耳をつんざくような轟音がして、城内が真っ白になるほどの雷光が閃いた。
「なんでこんなところに来た」
 真っ白な中に、オラディア公の姿が陰影だけで浮かび上がった。その口元には、あの牙がちらついている。
「なんでって、呼ばれたからだ」
 雷鳴が小さくなった。代わりに雨音が激しくなる。
「怖くねえのか」
 キール・デリは再び楽器を構えた。
「そりゃ、怖いに決まってる。あの時殺されかけたしな」
 雷は峠を越したようだった。雷鳴はだいぶおとなしくなり、ほとんど聞こえなくなっていた。
「だけどあんた、義理堅いんだよ。そこらの人間よりもよっぽどだ」
 壁に寄りかかったまま、ふん、とオラディア公が言った。かまわずキール・デリは続ける。
「だから俺も信用することにしたんだ」
 雨音も小さくなった。雲も晴れてきて外も明るくなった。彼が練習を再開すると、オラディア公はその場から立ち去った。

  

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