バー「ラフィーネ」での出来事

 勢いでタラゴンの町に到着したキール・デリだったが、そこは思ったよりも賑わっていた。彼は少し繁華街の中心部を歩き、悪くなさそうであったので駅前ロータリーの近くにある、小さな広場で商売を始めることにした。
 駅から吐き出された人々がキール・デリの前で立ち止まる。ふらふら歩いているカップルが、面白いものを見つけた顔で寄ってきて足元のブラッキィを指差す。悪くない。行き交うタクシーの運転手がちょこっと車の窓から顔を出し、彼を眺めて走り去って行く。
 一曲終わったのでキール・デリは改めて楽器ケースの中を確認し、今度は明るい流行曲に切り替えた。人ごみの向こう側にカメラとレコーダーを持った一群も見える。最近こうやって演奏を録音していく連中も多くなった。無断なのがしゃくだが、キール・デリはあまりそういった部分にはこだわらないようにしていた。彼らの存在はある意味、人寄せになるからである。
 ほどほどに演奏を終え、楽器ケースの中身もほどほどにたまったので彼は休憩を取ることにした。集まった人々に一礼をし、楽器と荷物を持ってささっと広場のすみっこに移動する。もちろん小銭の詰まった楽器ケースもだ。そこからコインを数枚取り出し、コーヒースタンドでサンドイッチとコーヒーを注文したところで後ろから声をかけられた。
「ちょっと、お兄さン」
 振り向くと、派手な化粧をしてごっつい体を赤いドレスに押し込んだでかい中年の男がいた。オカマ、と分類される人種である。足元はハイヒール、髪もちゃんとリボンをつけて結っていた。キール・デリは一瞬何が起きたのか分からなかったが、渡されたコーヒーとサンドイッチを受け取って現実に返った。
「なんだ」
 足でも踏んだのかもしれない。いちゃもんをつけられたら面倒だ、そうキール・デリは思ったが、相手はにっこりと微笑むとウインクをした。うへぇ、と彼が思ったのは言わないおく。
「このあとヒマなら付き合わない? アタシ、あなたのことがとっても気に入ったの」
 キール・デリにとっては人生最大の衝撃的な出来事であった。まさかそんな、と思ってみても現に今、自分はオカマにナンパされているのである。
「あなたとお話がしたいのよン」
 しなをつくって話しかける、この相手の年齢は三十代なかばであろうか。そんなことを観察していても仕方がない。キール・デリはなんとか衝撃から立ち直るとやっとこう言った。
「俺、そういう趣味ないんで……」
 その言葉を聞いたとたん、赤いドレスのオカマはけらけらと笑い出した。
「ああそういう事じゃないのよン。お仕事の話。ウチの店で弾いて欲しいんだけど、ダメかしら?」
「ウチの店?」
「そうよン。生演奏がウリなの。いま若い男の子のアーティスト募集中」
 仕事ならば相手がどういう格好であろうと関係がない。キール・デリはうなずくとコーヒーとサンドイッチを持ったまま、楽器と小銭とブラッキィを取りに広場のすみに戻った。

 赤いドレスを着たオカマの店は女装バーであった。キール・デリには何が楽しいのか分からなかったが、女装した男と酒を飲むのが好きな人間もいるのである。もっともそれだけではなく音楽の生演奏を導入して、他にも売りをつくっているのだった。
「差別化よン」
 この店のママ、赤いドレスのオカマが彼に言ったことである。この頃は近隣に同じような店が増えてきていて、客の取り合いをするようにもなっていた。そこでこのバーではもう少し違う客層を取り込もうということで、ミュージシャンの生演奏を始めたらしい。だいぶいかがわしかったが、彼はウェイターのようなお仕着せの衣装を渡され、けっこうな高給でそこの店で演奏することになった。
「時間は夜の九時から十二時。チップは貰ってもいいけどナンパされてもついてっちゃダメよン。いろんな奴が来るからね」
 彼のほかにも数名、ジャズサックスの奏者やギターの弾き語りをする者などがいるらしかった。キール・デリは控え室でそこにいた同業者達に挨拶をすると、自分のロッカー前にあるカゴで半分寝ぼけているブラッキィを確認した。
「きーる、ねむい」
「寝てろ。無理すんな」
 無理もない。今までずっと昼型の生活だったのが急に変わったのだ。ブラッキィがうつらうつらしだしたので彼はカゴに布を掛け、その場を離れた。しばらくはこんな感じだろう。その様子を見て、年かさのサックス奏者が今度の兄ちゃんは子連れか、と笑った。
「キールちゃん、出番よン」
 ママがキール・デリを呼びにきた。ママについて楽器を持ったキール・デリがステージに出て行くと、バーの客らがざわめいた。可愛いー、という声もする。ママが新人であることと、何がしかの口上を述べると拍手が沸いた。
 可愛いという言葉になんとなく微妙な気分になりながら、キール・デリは楽器を構えた。ママはもうとっくにステージを降りており、壇上にはキール・デリだけである。薄暗い店内は思ったより広かった。四人掛けになっている各ブースには必ず一人、この店のホステスがついている。みんな若くて美人ぞろいだったがどれも男だ。ママは正面ではなく右端に寄ったブースで、恰幅のいい紳士と何か話していた。
 キール・デリはひと通り周囲を眺めると、演奏に取りかかった。ざわついていた店内が静かになる。やがて静かな中に、引き込まれるような熱気が充満してきた。意外とこの店の客らは耳がいい。そのことに気がつき、彼は演奏する曲目を変更した。
「どこで見つけてきたんだい」
 さっき見かけた紳士が、キール・デリのことをママに尋ねた。うふふ、とママが笑う。
「道端にいたのよン。すごいでしょう。びっくりしちゃった」
「流し? 本当か」
 ママは細いメンソールのタバコを取り出すと、紳士に断って火をつけた。
「素性は聞かなかったけど、路上なんかにいる子じゃないわ」
「やっぱりわけあり、かね」
 紫煙をくゆらし、当然のようにママは答えた。
「そうでしょうよ」
 何か言いたげな紳士を制し、ママは言った。
「リンデンさン、手をつけちゃだめよ。ウチの看板にするんだから」
 そしてふうっと煙を吐いた。紳士は腕組みをし、演奏するキール・デリの様子をじっと見ていた。
「なるかね」
「なるわ。華があるもの。本人にも音楽にもね。問題はありすぎることね」
 ママは続ける。
「華やかすぎるのよン。技術もずば抜けて高い。何人も若いヴァイオリン弾きを見てきたけど、これほど弾ける子はいなかったわ。この子なら、それこそ万人単位のホールでだって聞かせられると思うわよン」
 飲み屋でこれほど真剣になったのは久しぶりだった。酔客相手のはずがまるでコンサートホールにいるようだ。どこまでやるか、どこまで手の内を見せるか考えているうちに、彼の持ち時間である三十分が終わった。キール・デリは楽器を肩から降ろすと頭を下げ、ステージの袖に引っ込んだ。
 拍手が彼を追ってきた。それが収まり、熱気が引いたころに次の奏者がステージに立った。さっき話しかけてきたサックス奏者だった。

 ある日、ステージが終わった後にキール・デリは客席に呼ばれた。袖に引っ込んだ後にホステスの一人が呼びにきたのだ。
「キールちゃん、楽器を持ってリンデンさんのところに行って。五番席ね」
 断れない客だというので、キール・デリはウェイターのようなへんてこな衣装のまま、ヴァイオリンを持って呼ばれた席に行った。
「失礼します」
 そこには初日にママと話していた、恰幅のいい紳士がいた。リンデン氏というらしい。隣にはキール・デリと同い年くらいであろうホステスが座って、一緒に何か飲み物を飲んでいた。
「ああ座って。何か飲むかね」
「いや、俺は……」
 結構です、という前に隣に座っていたホステスが素早くアルコールを注文していた。リンデン氏はそのことにはかまわず、キール・デリに話しかけてきた。
「キール君、だっけか。ずっと流しなのか」
「ええ、まあ、そうです」
 何を言い出されるのか見当がつかず、キール・デリはあいまいに返事をした。
「どこで楽器を習ったんだね」
「習ったのはセイボリーですが……何でしょうか」
 ふうむ、というとリンデン氏は彼の顔をよく見た後、持参した楽器に目をとめた。
「見せてもらってかまわんか」
「どうぞ」
 仔細に楽器を見て行くうちにリンデン氏の顔色が変わってきた。楽器の内部に瑚老人のサインを発見したからである。
「えらいものを持っているな。どうしたんだ」
「作ってもらいました」
 これはこれは、とリンデン氏はつぶやいた。隣にいたホステスにちょっと席を外すように言う。ホステスは去っていった。入れ替わりに巨大なカクテルが届けられる。
「キールちゃん、ウサギが起きちゃったみたいよ。どうする?」
 カクテルを届けにきた別なホステスが言った。リンデン氏がけげんな顔をする。
「あ、ちょっとすいません」
 キール・デリはリンデン氏に断るとカクテルを持ってきたホステスに尋ねた。
「ブラッキィのやつ、今どうしてる?」
「暴れてる。なんかハリーさんが困ってたよ」
 ハリーさんとはサックス奏者のことである。しばらく悩んだ後、キール・デリはリンデン氏にこう言ってみた。
「あの、まだお話が続くようなら、すいませんがここにウサギを連れて来ちゃダメですか? たぶん俺が行かないとおとなしくならないと思うんで」
 リンデン氏はびっくりした顔をしていたが、まあいいだろう、と許可を出した。先ほどのホステスがじゃあ連れてくるね、と言ってその場を離れる。
「ウサギか。ペットを連れているとは思わなかった」
 程なくして思ったより大きいホステスの両手につかまれてブラッキィがやってきた。寝起きで空腹でキール・デリがいなくて機嫌が悪かった。
「おい、きーる、なんでいないんだ」
 あとでサックス奏者に謝っておかねばならない。キール・デリは、パンくずでも野菜くずでもなんでもいいから出してくれるようホステスに頼んだ。ホステスは調理場からむいただけのキャベツを二枚ほど貰ってきてくれた。
「スピリットか」
 ガツガツとキャベツをかじるブラッキィを見てリンデン氏が言った。
「ご存知ですか」
「まあね。しかし君は何者だ。スピリットだって安くはないぞ。流しの稼ぎで買えるとは思えない」
「拾ったんです」
 とうとうリンデン氏はあきれた表情になった。
「拾ったのか。まあいい。実はソレルに建設中のガレオンターク財団音楽ホールのことは知っているかね」
 急に話が飛んだのでキール・デリはとまどってしまった。
「ソレル? あんなところに? えらい不便ですよ」
 リンデン氏はテーブルに置かれた自分のグラスを手に取り、一口すすった。からからと氷が鳴る。
「知っているようだがソレルにはなにもない。そこで大規模開発の中核施設として町が誘致したんだ。それこそトップミュージシャンからオペラやミュージカルまで対応できるように、最新の音響装置と舞台用ギミックが導入されている」
 話は分かったがそれがなんなのか、キール・デリにはいまいち分かりかねた。
「それで、いったい何でしょうか」
「音響テスト用のヴァイオリン弾きを探している。こっそりとね」
「こっそりと?」
「こけらおとしはザイナス・カミングのコンサートだ。日時も決定している。できれば同程度の技量の持ち主が欲しいが、オープン前に情報が外に漏れると困る。だから学生や流し、無名のオーケストラなどを当たっているんだ。君ならどうかと思ったんだが、どうかね」
「ザイナス・カミング?」
 その名前に反応してしまったのはキール・デリの落ち度であろう。リンデン氏はふむ、と彼の顔を見た。
「やるなら私から担当者に話をしておく。正直、君のほうが技量的には上のような気がするがね」
 ブラッキィがキャベツをかじるのをやめて、彼の顔を見上げた。ぱたぱたと跳ねてテーブルの上に乗っているリンデン氏の手のにおいをかぎ、また戻ってくる。
「……考えさせてもらえますか。それに、俺よりもザイナス・カミングのほうがずっと上です」
 彼が即答しなかったのはママの忠告が頭をよぎったからだった。いわく「ナンパされてもついてっちゃダメ」である。

 一週間後、キール・デリは休みをもらってブラッキィとともにソレルの町にいた。彼らはくだんの音楽ホールを見にきたのである。ホールそのものはだいぶ出来上がってきていたが、周囲はまだ全然手つかずで、ただの草原に囲いをしてあるだけだった。
 キール・デリはアルミ製の囲いにそってぐるぐるとまわりを歩いてみた。すると「ガレオンターク財団音楽ホール建設地」と書いた立て看板があった。そのそばにはホールに関する詳細を書いた看板が立っている。キール・デリはその看板に近寄って記載事項を読んでみた。
「サラティア音響株式会社? なんだこりゃ」
 建設会社とその協力会社にまじって、聞いたことのない名前があった。社名からするにサラティア社の関連会社と思われたが、いったい生化学の会社がなにを始めたのか、キール・デリにはさっぱり分からなかった。
「わーれんがしってるぞ」
 背中から声がした。
「そうなのか」
 うっかり答えてしまってから、キール・デリはそれがリュックの中のブラッキィの声だと気がついた。
「ブラッキィ?」
 あわてて振り向いたが、ブラッキィは彼の背中にくっついているので長い耳しか見えなかった。
「なんでそんなこと知ってるんだ」
 途中で買った、細い葉つきのニンジンをもぐもぐとやりながらブラッキィは答えた。
「あいつのにおいで思い出した。わーれんがみんなしってる。おれのことも、きーるのことも」
「……ワーレンって誰だ」
「しらない」 
「知らないってなんだよ! 名前を知ってるんだろう!」
 思わずキール・デリは大声を上げてしまった。通りがかった人々が、ヴァイオリンを提げて黒うさぎを背負ったおかしななりの若者をじろじろと見ていく。キール・デリははっと我に返り、ブラッキィを詰問するのをやめた。
「おれがぶらっきぃになるまえのことだからわからない。それだけおもいだした」
「あいつって誰だ」
 こちらの質問にはブラッキィはすらすらと答えた。
「店できーるとはなしてたやつだ。かいだことのあるにおいがした」
「嗅いだことのあるにおい?」
 もぐもぐ、ふんふんやりながらブラッキィは言った。
「くすりのにおい。へんなにおい。でも、もうわからない」
 ふつっ、とブラッキィの記憶の糸はそれきり途切れてしまったようだった。これ以上尋ねても無駄だろう。キール・デリはリンデン氏の持ってきた「音響テスト用のヴァイオリン弾き」の話について、考え込みながらその場を離れた。

 結局、キール・デリはリンデン氏の話を断った。その代わり、リンデン氏に自分の養父のことについてたずねてみた。
「エンライ? ああ、あいつか」
 リンデン氏はエンライ・コーダについてよく知っていた。なんと大学の同窓だったのである。優秀だったが物静かで、周囲がうらやむような大企業に就職したが、やがて失踪してしまったとのことだった。
「社外秘の研究を持ち逃げしたとかで、一時期騒ぎになっとったよ」
「社外秘の研究?」
 リンデン氏に話があるといったら注文した飲み物とナッツを持たされたので、まるっきりウェイターであった。女装バーなのに普通の格好をしている、という客の視線も突き刺さる。あまりだらだらと話を続けているとドレスを着せられそうだったので、キール・デリはなるべく手早く話を進めることにした。
「当時はライバル社に引き抜かれたんだろうとの噂だったが、コンタニで新技術が開発されたとも聞かなくてね」
 コンタニとはサラティア社と同じような、新生物の開発をしている会社である。キール・デリがシャトーブリューンで疑いをかけられたフィンチ類は、もともとここの開発した亜人種だ。正式名称は「コンタニカンパニー・コーポレーション」という。
「行方不明ということでそれっきりだったが……そうか、君、息子さんだったか」
「ええ、まあ」
 実父ではないのだが、キール・デリはそこは黙っていた。リンデン氏は、おそらくずっと気になっていたのだろう、キール・デリにこう聞いてきた。
「失踪した理由は君、分かるかね。そんなことをするようなやつじゃないし、どうにも唐突で、いくら考えても分からなかったんだよ」
 ためらったが、キール・デリは答えた。
「……たぶん、俺じゃないかと思います」
 その答えにじっとリンデン氏はキール・デリを見つめていたが、そうか、と何やら納得した顔をした。
「あいつは生真面目だったからな。子供によくないと思って会社を辞めたんだろう。命を無用にいじくるのはやはり褒められたことではないからな」
「オヤジは……父は何の仕事をしていたんですか」
 さりげなく聞いたつもりだったが、少し動揺が出てしまったかもしれなかった。キール・デリは持っていた盆が震えるのを、反対側の手でしっかりと抑えた。幸いにもリンデン氏は気がつかなかったようで、追憶に浸りながら話をしていた。照明が暗かったのもあろう。
「最初はマン・ダミーの改良をやってたな」
 マン・ダミーとはサラティア社が開発した、悪名高き肉体労働用人造種である。主な用途は工業用で、一律処理のできない、有毒物を含む機械製品の分解作業や、安価な鉱山夫として使われる。アンダーな部分では兵士としても需要がある。こういった存在を作り出したサラティア社について、当初は非難轟々だったが需要がそれを乗り切った。やがて規制が入り、マン・ダミーは禁止となったが、余剰分が発展地上国の内紛が多いエリアに流れたことは、昨今よく知られている話である。
「そのうち異動になって、新商品開発の担当になったと言ってたよ。なんだかあんまり気が進まないような話をしていたが、その後、いなくなってしまった」
 リンデン氏はあまり話したくないのか、この部分になると歯切れが悪くなった。キール・デリも話を聞きたいような聞きたくないような気がして、それ以上細かくは聞かなかった。
「そうですか」
 懐かしそうにリンデン氏は目を細め、彼にこうたずねた。
「エンライのやつはどうしてるかね」
「五年前に病気でなくなりました」
「……そうか。いいやつだったんだが。失踪したことといい、人間、分からんもんだな」
 それきり、リンデン氏は黙り込んでしまった。キール・デリは挨拶をするとそっとその場から立ち去った。

 数ヵ月後、キール・デリはママにバーの仕事を辞める旨を伝えた。
「キールちゃん本当に辞めちゃうのン? がっかりだわ」
 相変わらず大迫力のドレス姿であったが、見慣れたせいなのか最初のような戸惑いはなかった。
「俺、行かなきゃならないところがあるんです。こいつと一緒にね」
 開店前のことである。ブラッキィはまだ明るい店内で周囲を嗅ぎまわりながら、ぱたぱたと床を歩き回っていた。
「行かなきゃならないところ? お仕事より大事なのン?」
 ママが不思議な顔をしたのも無理はない。ええ、とキール・デリは答えた。
「人を探しているんです。どこにいるか分からないけど、俺はそいつに会わなきゃならない。だからそろそろここを出たいんです」
 ママはなるほどね、という表情になった。
「じゃあしょうがないわねン。もし戻ってきたらまたここで弾いてちょうだい。約束よン」
 そこへどやどやとホステス達が出勤してきた。話を聞き、えーっ、と声を上げる。
「じゃあキールちゃんちょっと待ってて」
 数人が大慌てでロッカー室に行き、戻ってきた。見ると大きな紙袋とこれまた大きなコスメバッグを持っている。紙袋の隙間から白いレースがちらっと覗いていた。
「辞める前に一回やらせて! お願い!」
「えっ……」
 紙袋を持ってきたホステスはそれを彼の目の前に掲げ、こう宣言した。
「絶対キレイだから! 一度でいいから化粧させて!」
 素晴らしい早さで手に提げていたヴァイオリンが取り上げられる。キール・デリは数人がかりで自分の控え室ではなく、ホステス達のロッカー室に無理やり連行された。
「ウサギも! ウサギもよ!」
 床を跳ね回っていたブラッキィも捕まり、テーブルに上げられた。ブラッキィがなにをする、と抗議しても全然聞いている様子はない。ブラッキィを捕まえたホステスは、素早く彼の首まわりにひらひらした白いレース飾りをつけた。胸元には光るブローチがつけられる。
「いいでしょう」
 ブラッキィは最初むっとした顔をしたが、光る大きなブローチにたちまち機嫌を直した。
「これ、くれるのか」
「そうよ。よく似合うわ」
 一方のロッカー室は大騒ぎである。
「やめろ、やめてくれ」
「逃げちゃダメ!」
「ちょっとー、つけまがないんだけど。どこいったの?」 
「ウィッグどれにする? 巻くの?」
「パッドは? S? M? いっそXLにしちゃう?」
 どたばたと物音がして、しばらくして真っ白いドレスの美女が、ホステス達にロッカー室からよろよろと引っ張り出されてきた。あらまあ、とママが感心したようにその美女を見た。
「まーキレイねえ。椿姫みたい。キールちゃん、お店出ない? ヴィオレッタって名前で」
 一方のキール・デリは完全にぶすくれていた。
「勘弁してください。俺はこういうの趣味じゃないって言ったじゃないですか。ヴァイオリンはどこへやったんです」
 そしてテーブルの上にいる、飾り立てられたブラッキィに目をとめた。
「お前まで何やってんだよ」
 んー、とブラッキィはキール・デリを見上げる。
「きーる、なんだそれ。へんなかっこうだな」
「お前こそなんだよ」
 ブラッキィは後ろ足で立ち上がると、誇らしげに大きなブローチを彼に見せた。
「すごいだろう。きらきらしてるんだぞ。もらったんだ」
「……そうかい」
 キール・デリにはもはや突っ込みを入れる気力もない。そうこうしているうちに開店の時間になってしまった。彼を放置し、ぱらぱらとホステス達が店内に散らばっていく。キール・デリはブローチを着けたままのブラッキィとヴァイオリンを引っつかみ、メイクを落とそうと自分の控え室に向かった。
「おや、新しい子だね。きみ、名前は?」
 店内をまっすぐ抜けて行こうとしたのがまずかった。いきなり声をかけられ、店の客につかまってしまった。
「いや、俺は違います」
 断ろうと顔を見たらリンデン氏であった。
「ん?」
 リンデン氏はじーっと彼の顔を見て、右手のヴァイオリンと左手のブラッキィに気がついた。そしておやおや、という表情になった。
「きみ、キール君か。なんだ化けたな。こっちへ来て飲みたまえ」
 否も応もない。キール・デリはドレス姿のまま、ふかふかの4人掛けソファーに突っ込まれた。長いすそを踏んでふらついたところを押し込まれたのだった。
「俺は帰ります」
「ちょっとぐらいいいだろう。もったいない」
 そう言うリンデン氏の両手には、大事なヴァイオリンとブラッキィが抱え込まれている。
「少し付き合いなさい。いいな」
 諦めてキール・デリはソファーに座り込んだ。
「俺、まだ今日ステージがあるんですけど」
「そのままでいいだろう」
「よくありませんよ」
 ママが騒ぎを聞きつけてやってきた。
「助けてください。俺、楽屋に戻りたいんです。この格好じゃステージに出られません」
 ここぞとばかりにキール・デリは窮状を訴えてみた。ママはくすくすと笑ってキール・デリとリンデン氏のことを見ていた。
「そのまんまでいいわよン」
「えっ」
 ママは何か思いついたらしかった。ドレスを着たままのキール・デリにこう聞いてきた。
「『椿姫』できる?」
「そりゃ何でもできますよ」
 返事が不機嫌なのは仕方なかろう。
「さすがね」
 ママのほうは上機嫌だった。通りかかったホステスに使い走りをさせ、ステージ上になにやら用意した。キール・デリはママとの簡単な打ち合わせ後、出番までその場で待機を命じられた。
「そうだ、聞いていいですか」
 そういえばまだ聞いていないことがあった。キール・デリは真横に座るリンデン氏に、前から気になっていたことを質問をした。
「リンデンさんは何の仕事をしているんです? なんでソレルの大ホールのことなんか知ってるんですか」
 ちらっとリンデン氏はキール・デリのことを見た。
「本当はこの店でそういうことを話すのはご法度なんだが」
「えっ、そうなんですか」
 まあいい、とリンデン氏は言った。
「製薬会社の営業をしているよ。ガレオンタークの話は取引先から持ち込まれてね。直接の関係はないんだが人選に難航していて、知ってるヴァイオリン弾きがいたら当たってくれと頼まれたんだよ。ま、断られたがね」
 痛い一言がついたが、キール・デリは納得した。なんでまた、とリンデン氏が尋ねるので彼はこう答えた。
「ブラッキィのやつが薬のにおいがするって言ってたんで、父と同業の技術者かと思ってました」
 あっはっはっは、とリンデン氏は大きく笑った。
「私はそんなに優秀ではないよ。納品先に大手の動物病院や大学の施設もあるんで、それじゃないかね」
 なるほど、とキール・デリはそこに用意されていた飲み物を口にした。サクランボつきオレンジソーダのカクテルもどきである。演奏できなくなると嫌なのでアルコールは抜いてもらっていた。
「それにしてもなんだ、ずいぶんと色っぽいな。悪くない」
 付け毛をかき上げ、ちゅうちゅうとストローを吸い上げるキール・デリを、リンデン氏が隣でこう評した。顔がひきつってしまった彼に、リンデン氏は笑って言った。
「美女なんてのは見るだけでいいんだ。実物は面倒くさくてかなわんよ」
 なんだか思ったよりも変なオヤジだった、そう彼が後悔した時にママが呼びにきた。
「キールちゃん、時間よン」
 ステージは真っ暗だ。彼は気持ちを切り替え、ヴァイオリンを持つとママに手を引かれて壇上に上がった。

 真っ暗な中、白いドレス姿のままキール・デリは楽器を構えた。暗いとは言っても本当の暗闇ではないので弾くのに支障はない。それでも付け毛と肩に縫い付けられているスパンコールは邪魔だった。肩当てがあるとよかったが、荒れ城で壊してしまってからは使っていない。今までなくてもよかったので買わなかったのである。
 滑り出すようにキール・デリの楽器から音楽が鳴り響く。だんだんと大きくなるイントロにあわせ、下からひとつ、またひとつとスポットライトが彼に当てられる。ライトが増えるたびに客席のざわめきが大きくなった。やがて全部の照明が当てられ、奏者であるキール・デリの姿がはっきり浮かび上がる。彼の楽器がヒロインの恋を切なく歌い上げた。
 もうキール・デリは自分がどんな場所でどんな格好をしていたかなど、すっかりどうでもよくなっていた。ステージには一面に白い造花が敷き詰められている。そんなことも気がつかず、彼は演奏に没頭していた。サブでもう一人のヴァイオリン弾き、もしくはチェロが欲しい、そんなことを思う。もとはヒロインの独唱曲ではあるものの、自分だけではこの世界を展開するためにはまったく足りないのだ。そもそも演奏にオーケストラがつくようなオペラなのだから当然だった。
 ふとキール・デリは、シャトーブリューン時代とまったく同じように演奏している自分に気がついた。この場所でこの弾き方では音が大きすぎる、そう思ってももう止まれなかった。いくら弾いても旋律の隙間は埋まらない。音が足りなすぎるのだ。チェロがあったらいいのに、と思い、また同時になぜコントラバスがないのかといぶかった。そして瞬時に現実を思い出した。
 フラッシュバックが走る。これではまたコンサートマスターに叱られてしまう。走りすぎだ、と。楽団である意味を考えろ、とコンサートマスターは彼に口を酸っぱくして言った。当時の彼にはその言葉の意味が分からなかった。ちゃんと自分のパートをこなしていると、そう思っていた。まだまだだった。今なら分かる。だが、もう戻れない。
 もう曲が終わる。全然足りなかった。最低でもサブでヴァイオリンがもう一つないと駄目だ。ザイナスとは言わない。シャトーブリューンの誰でもよかった。技量の差があるなら自分が合わせる、そうとも思った。彼がそんなことを考えたのは初めてだった。
 曲が終わった。
 彼の熱演にバーの客らは惜しみない拍手を送った。ポカンとしたリンデン氏の顔が、してやったりといったママの顔が見える。ブラッキィは派手なブローチをつけたまま、テーブルの上で耳を伏せてうずくまっていた。よほどの演奏の時でないととらない姿勢だった。
 だが、失敗だ。こんなものではダメなのだ。
「迷ってるな、兄ちゃん」
 ステージを下がる時に、ぽん、と背中を叩かれた。次番のサックス奏者が彼のことを見ていた。
「うんと悩め。全部糧になる。兄ちゃんならいつか大舞台に立てるさ」
 そうだろうか、とキール・デリは思った。今の彼は暖かい言葉をかけられても、額面通りには受け取れなかった。

 キール・デリはブラッキィ入りのリュックとヴァイオリンのほかに、大きな荷物を持ってタラゴンの駅に向かった。餞別だということで女装バーのママとホステス達に渡されたのである。さほど重くはなかったがそこそこサイズがあって、持って歩くのには少々骨が折れた。
「ひとやすみか、きーる」
 彼は駅のベンチで腰を下ろした。いったいなんだろうと思ったのである。ブラッキィはあれ以来、光るブローチが気に入ってしまってずっとつけていた。首まわりのレース飾りはだいぶ汚れてしまっていたが、ブラッキィはそんなことに頓着などしない。
「邪魔なんだよな」
 もらっておきながら結構な言いぐさである。もっとも両手と背中がふさがってしまっているので不便ではあった。彼は持っていた紙袋をがさがさと開け、そしてとても情けない顔になった。
「……すげえいらねえ」
 入っていたのはあの日に着た白いドレスと付け毛、それにXLサイズの胸パッドだった。ご丁寧にもメイク用品と付けまつげまでしっかりと入っている。いったいどうしたらいいのか、彼は駅のベンチで途方にくれた。
「それ、きるのか、きーる」
「着ない」
「じゃあどうするんだ」
「どうしたらいい、ブラッキィ」
 んんー、とブラッキィは鼻をふんふんさせ、レース飾りをひらひらさせながら言った。
「きてあるく。にもつがへるぞ」
 それはそうだ。しかしこの返事にキール・デリはさらに途方にくれてしまった。だがそこらに捨てていくわけにもいかない。いや、捨ててしまおうかとも思ったのだが、なんとなく気が引けたのである。
「……次の町で古着屋に売ろう」
 キール・デリはそう決めて、荷物をまた紙袋に押し込んだ。外からは見えないようにぎゅうぎゅうと押し込んだので袋が変形してしまったが、もはやどうでもよい。彼はベンチから立ち上がり、荷物と楽器を持って切符を買うために窓口に向かった。

 もっともこのドレスは後日、彼の窮地を救ってくれる。ただし、それはまだずっと後のことだ。キール・デリはのちにこのドレスと友人に、感謝してもしきれない羽目に陥るのである。

 

   

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