ファンタジアにて 後編

  数日後、キール・デリは今までいたゲストルームからさらに奥の個室に半強制的に移された。リンダがやってきて大事な楽器を持って行ってしまったのである。彼は荷物とブラッキィを抱え、その後を追った。
「勝手なことをするな」
「キュルルルー」
 抗議しても無駄ではあったが、キール・デリは一応文句を言った。新しい部屋は真っ白い壁にベッドとモニター、それにゴミ箱がひとつあるきりで殺風景極まりない。ベッドサイドには小さなテーブルが置かれ、壁からは何本ものチューブが引き出されていた。そのチューブの先はテーブルに置かれた四角い機械に繋がっている。その機械からまた、何本かチューブが出ていた。
「やな感じだな」
 私物置き場に置かれたヴァイオリンケースがひどく浮いて見える。ブラッキィはベッドの下にあった着替え入れの箱に入っていた。そこしか居場所がなかったのだ。
「キールさん、ですか。ホーバーといいます。よろしくお願いしますね」
 彼よりももう少し年上らしい感じの、白衣を着た男が出てきた。キール・デリはその男をよく眺めて、動物の耳やしっぽが出ていないか確認をした。少し遅れてジェナスがやってくる。
「ちゃんと人間がいるんだな。ロボットやトロルばっかりかと思ったぞ」
 彼にこう言われ、ジェナスはうーん、と言ってしまった。ホーバーのほうは苦笑いしている。
「トロルって……ロッキーのことですか。それに医者や技術者は外から呼びますから。さすがにここにはいませんので」
 ベッドに寝かされ、採血やら血圧計測やらをされながら、キール・デリはあることを思い出した。
「そうだ、お前、ルドワイヤンとかいう学者を知ってるか。本当は俺、そいつを探しに来たんだよ」
 今言わないと、と思ったのである。どたばたしてしまってすっかり忘れてしまっていた。
「ルドワイヤン?」
「けっこうなジジイらしいんだが、そいつがこういうのに詳しいって聞いたんだ。結局ここで調べてもらうことになったけどな」
 ジェナスとホーバーは顔を見合わせた。もしかして、とジェナスが言った。
「サーパス・リー・ルドワイヤンですか?」
「そうそう、そんな名前だった」
 さらにジェナスとホーバーは顔を見合わせた。いや、私は別にかまいませんが、というホーバーの声が聞こえる。しばらくしてジェナスが言った。
「このセンターの関係者なんで呼べますけど、そうしますか。詳しいっていえば詳しいですよ」
「そうなのか」
 ホーバーが話に入った。
「彼にデータを読んでもらうなら、たいていのことは分かりますよ。私も勉強になりますし。ジェナスさんが呼べば来ますよ。なにしろ先生ですから」
 一方のジェナスはうーん、と言ったきりだった。
「……でもいたほうがいいかな。難しそうだし。僕、あんまり自信ない」
 ホーバーがちらっとジェナスを見る。
「珍しいことを。『同定のジェナス』が何を言ってますか」
「……先月、三件も間違えて電話がかかってきちゃったよ」
 あっはっは、とホーバーが笑った。それからキール・デリに起きるようにいい、今後のスケジュールの説明と問診票を兼ねた紙を渡して、それに記入するようにと言った。
「じゃあ僕はこれで失礼します。結果が出そろったら説明しますね。十日ぐらいしたらまた来ます」
 ジェナスはこう言って部屋を出て行った。
「プレートは預かります」
 細々した項目を書き込んでいるうちに、プレートを取り上げられた。さっとホーバーがその記載面に目を通す。
「これはまた……ずいぶんパーセンテージが高いですね。自覚のある内臓の病気はないですか」
「特にはないな」
 じっとホーバーはキール・デリの顔を見た。室内も見渡し、私物棚の楽器ケースと足元のブラッキィに気づく。
「ヴァイオリンですね。楽器を弾かれるんですか」
「ああ」
「あとで聞かせてもらえますか」
 意外な申し出だった。少し驚きながらもキール・デリは了承した。
「申し訳ないのですが、ウサギは別の部屋に移動します。雑菌の元ですので」
「だってよ、ブラッキィ」
 聞こえていたらしい。ブラッキィは後足で立ち上がり、箱のへりに前足をかけて文句を言った。
「おまえ、しつれいだぞ」
 ホーバーがおや、という顔になる。
「しゃべるんですか。スピリットなんてまた珍しいものをお持ちですね。じゃあワンサイズ大き目のケージにしておきますよ」
「悪いな」
「いやいや」
 ホーバーは紙を受け取りながら言った。
「正直、なんでキールさんにプレートがあるのか疑問です」
「トラップ、か?」
「そう思われても仕方ないですよ。このRNA含有率はマン・ダミーより高いです。量産品と退化処理のないワンオフという違いがあるにしろ、いったいどこに異種化RNAを繋いだのかと思いますね」
「そんなにひどいのか」
 こう言ったらいけませんが、とホーバーは前置きした。
「まともではありません。キールさんが通常のひとがたであり、普通に会話もできるのが驚きです。まだ検査をしていないので分かりませんが、何か別の姿形であるのが普通という含有率です」
 しばらく考え、分からなかったのでキール・デリはこう言った。
「なんでもいい。とにかく検査をやってくれ。終わってできるなら楽器も弾いてやるよ」
 
 二週間後、キール・デリの検査と結果の検証が終わった。それまでの間、彼はあの殺風景な小部屋に閉じ込められ、モニターでつまらない地上波放送を見るか楽器をいじるくらいしかすることがなかった。楽器も一回演奏したら「検査中にそんな体力を使うことをしてはならない」と注意され、弓を取り上げられてしまった。本体のほうが残ったのは、弓がなくても弦をはじいて遊ぶくらいは許されたからである。
 ブラッキィもいないし退屈このうえない。おまけにプレートも返ってこなかった。開放されてからまともに楽器が弾けるだろうか。指が動かなくなっていたら大事である。元に戻るのにどれだけリハビリが必要なのか暗澹としながら、彼はこの部屋から出してもらえる日を待っていた。
「キールさん、結果を説明します。荷物をまとめて来て下さい」
 呼びにきたのはホーバーだった。彼はリュックを背負い、楽器ケースを持つとホーバーに言った。
「弓を返せ」
 くすっ、とホーバーが笑った。
「ちゃんとありますよ。中央のカフェテリアにみんないますから、そこでお話します」
 後ろからリンダが弓だけ持ってついてくる。開放された入口からホーバーは、学者達が並んでいるテーブルにキール・デリを案内した。
「キールさん、こちらがルドワイヤン博士です。非常勤でうちの顧問をやっていただいています」
 どこにも白髪の老人はいなかった。ルドワイヤン、と呼ばれた白衣の人物はホーバーと同じくらいの年恰好であり、下を向いてそこにあるプリントの類を読んでいた。ホーバーに声をかけられ、ああ、と顔を上げる。
「失礼。ちょっと夢中になってしまって……キールさんですね」
 薄茶色のやや長い前髪の間から青と茶の、左右違う色の目がのぞいた。学者らしい、落ち着いた雰囲気の人物ではあったが、また結構な異相である。しかしどうみても若かった。
「ルドワイヤン博士?」
「ええ、そうですが」
 キール・デリはついこう言ってしまった。
「あの、俺、八十近いじいさんだって聞いてきたんだけど」
 ぷっ、と相手が笑った。
「私は七十六ですよ。そう見えないかもしれませんが」
「え?」
 答える口元から大きな犬歯が見えた。キール・デリは湧き上がる嫌な予感を抑えながら、出口になるべく近い、少し離れた席についた。
 ジェナスはなんでもない感じでその隣に座っている。ホーバーがジェナスの隣に座った。さて、と一同に声をかける。
「始めましょう。伯爵からどうぞ」
 軽く会釈をして、ルドワイヤン博士が口を開いた。キール・デリは小さな声で近くにいるホーバーに聞いてみた。
「伯爵って、なんでだ」
「ああ、そうでしたね」
 ホーバーは気づいたように言った。
「彼は吸血鬼……」
 ここまで聞いてキール・デリは椅子から立ち上がり、自分のリュックと楽器をつかんで逃げ出そうとしかけた。いや、実際そうしたのである。何もないと思ったカフェテリアの入口で向こうからやってきたリンダにぶつかり、転んだところを追いかけてきた学者たちに取りかこまれた。
「……みたいなんでそういうあだ名があるんですよ。大丈夫ですか、キールさん」
 ホーバーが上からのぞきこんで続きを言った。ぴかぴかの床の上でキール・デリはしたたかに腰を打ち、その痛さにしばらく動けないでいた。リンダはその横を何事もないかのように横切り、箱に入った荷物をホーバーの座っているテーブルの下に置くと出て行った。
「吸血鬼はもうたくさんだ」
 当のルドワイヤン博士はびっくりしたようにこの光景を見ていたが、彼のそばまでやってくると面白そうに言った。
「本物を見たことがあるんですか」
「あ、いや、まあな」
 まさか追いかけられたり、殺されかけたことがあるとは言えない。
「私はないんですよ。私はドクター・サイモンが面白半分につくったレプリカなんです。一度本物を見てみたいと思うんですが、なかなか」
「……ロニセラ山脈のふもとの荒れ城にいるぞ。俺はもう会いたくない」
 本当ですか、とルドワイヤン博士が笑った。キール・デリはその色違いの目を見ながら聞いてみた。
「もしかして、あんたもなのか」
 いいえ、とルドワイヤン博士は言った。
「一応、遺伝子上は人間です。こんな外見ですけどね。だいぶ代謝系、内分泌系等いじってあってずいぶん病気をしましたよ。老化を遅延させた代償です」
「そうなのか」
 大きな犬歯の間からくすっと笑いがもれた。
「吸血鬼なのに病弱なんですよ。困ったものです」
 さて、とルドワイヤン博士は言った。
「本題に戻りましょう。みなさん席について下さい」
 ぞろぞろと一同はまた元のように椅子に座った。ホーバーはリンダが置いていった荷物に気がつき、がさがさと箱を開ける。まるで何もなかったように吸血鬼のレプリカ、ルドワイヤン博士が話し始めた。その目の前にはキール・デリのプレートが置かれている。
「まずこのプレート、被検体記載票の真贋からですが、記載されている数値と実際の検査値に異同はありません。またプレートそのものもサラティア社製であり本物です。つまり、キールさんはこのプレート通りの存在ということになります」
 言いたいことは分かったが、学者の言うことなのでなにしろ長い。
「そうすると異種化RNAの被含有率とその内容が問題となります」
 ホーバーが後を取った。
「解析の結果です。こちらのプリントをどうぞ」
 キール・デリもずらりと数字とアルファベットが並んだ細かい表を受け取った。が、なんだか分からない。
「何の表だ」
「異種化RNAの解析表です。こちらが対比表。一番近いのが……」
 キール・デリは始まったばかりだというのに、だんだんと退屈してきてしまった。データを見ながら三人ともああでもない、こうでもないと討論しているが、結論が出る様子はない。
「まだかよ」
 こっそりとつぶやいてみたが、夢中で誰も気がつかなかった。注文しておいてくれたらしいコーヒーがそこにあったので飲んでみる。立ち上がって砂糖とミルクを取りに行き、戻ってきて入れて全部飲んでしまったが、いまだ結論は出ていないようだった。
「あ、キールさん」
 ジェナスがやっと彼のことを思い出した。その時キール・デリは、放置してあった弓と楽器の手入れをしていた。
「で、どうなったんだ」
「すみません」
 ジェナスが謝る。
「いつもと違うのでつい……えっと、僕でいいんですか」
 残り二人がうなずいた。
「ええと、キールさんはトラップじゃありません」
「そこは分かった」
 少し困ったようにジェナスは続けた。
「でも、そうすると今の、そのキールさんの姿は説明つかないんです。それで調べてみたんですが、どうも不活性化されているみたいです」
「不活性化?」
 キール・デリは楽器をしまった。ホーバーが下に置かれた荷物から、何かが入った広口ビンを取り出した。
「キールさんの遺伝子に繋がっているヒト遺伝子でない部分を異種化RNAって言うんですけど、それがほとんど働いていないんです。こういう研究施設ならともかく、企業だとそういった処理はまずしないんですけど、そうなってます。なんでなのか理由は分かりません」
 ホーバーが何かの入った広口ビンを皆の前に提示した。
「できたんですか」
 ルドワイヤン博士が驚いたように言った。ホーバーがうなずく。
「ロックを外すのがこれほど大変とは思いませんでした。大変すぎて培養は外注に出しましたが……よくできてます。でも、私はこれをヒト遺伝子に載せるのは冒涜だと思いますよ」
 全員が透明なビンの中に入っているものを注視した。あまり大きくはない。皮膚によく似た肉隗から、黒い、細長い虫の翅のようなものが二本出ている。じっと見ているとそれぞれがビクッ、ビクッと動いた。
「生きているのか」
 ええ、とホーバーは答えた。トントン、と持っているペンで置かれたテーブルを叩く。と、虫の翅のようなものは下向きからピョコン、と上に跳ね上がった。
「振動に反応しますね。もしかしてと思いましたが……やっぱりですね」
「ホーバーさん、どうしてです」
 ルドワイヤン博士が疑問を投げかけた。ホーバーはちらっとキール・デリとそこに置かれている楽器のケースを見る。
「キールさんのそれはヴァイオリンですよね」
「ああ」
「キールさんは亜人種にしては不思議な技能をお持ちです。ジェナスも、伯爵もそう思ったはずです。なぜなら芸術方面にシフトする能力は、現在の技術では再現不可能だからです」
「フィンチ達がいるだろう」
 キール・デリが言うとホーバーはいいえ、と答えた。
「彼らは違います。彼らはテープレコーダーなんですよ。聴いたものををコピーすることはできますが、一から作り出すことはできないんです。それが彼らにおける亜人種としての制約ですから」
 意外なところから援軍が来たようにキール・デリには感じられた。自分はフィンチではなかったのだ。
「これは完全な仮説ですが」
 そう前置きしてホーバーは言った。
「この異種化RNAの部分がもし振動に対しての反応を司るなら、キールさんがヴァイオリンを弾かれるのにある種、有利な部分となります」
「どういうことなんだ」
 ホーバーはビンの中身をペン先で指して答えた。
「ヴァイオリンは弦楽器です。弦楽器というのは弦を振動させて音を出しますよね。それに対する感受性が他の人よりも鋭いならば、ええとですね、たとえば犬の嗅覚のように人間よりも微細な振動をキャッチし、信号として脳に伝えられるならば、ごく普通の人達よりは有利に音を扱えるんではないかということです。もっとも絶対音感のあるなし程度にしか有利ではないとは思いますが。それにキールさんの場合は不活性化されてますから、実際に機能しているかどうかも疑わしい部分があります」
「なるほど。ではホーバーさんの結論はどうなんです」
 やんわりとルドワイヤン博士が先を促す。ホーバーはややためらいがちにこう話を結んだ。
「もしかしたらエンライ氏が組み込んだこの異種化RNAは、今のキールさんにとっては有利な補助機能として働いているのかもしれません。楽器が弾けるというのは、私が見た限りですが亜人種の定義としては大幅に外れています。そしてキールさんはどうなのか、と言われれば現状では異種化RNAは不活性化されていますから、『ほぼ人間である』と言うことになります。私からは以上です」
 ただし、とホーバーは付け加えた。
「このビンの中に入っているのはヒトのパーツではありません。CGソフトでキールさんの活性化させた遺伝子から胚を再発生させ、成長させた予想図を描いてみましたが、持ってくるのをためらわれるほど醜悪です。実際持ってきませんでした。伯爵の許可があれば破棄したいくらいです」
 伯爵ことルドワイヤン博士は、その言葉に腕組みをして考え込んだ。
「これは何だ」
 キール・デリの質問にホーバーは答えた。
「キールさんの異種化RNAの一部分から造ったものです。もとは砂漠に住むバッタの一種から取ったようですが、機能も形状もだいぶ変わっています。本来のキールさんの姿は、これが一面に生えている、神経と内臓の詰まったたまねぎのような形のものだと予想されます。要求されたから造ったんでしょうが、あまりいいものとは私には思えません」
 ホーバーの説明に全員が黙り込んだ。
「ウォールナッツ・ブレイン(クルミの脳髄)ですね。簡単に制御の利く大脳が欲しかったのでしょう。使い道は分かりませんが」
 しばらくしてその姿勢のままルドワイヤン博士が言った。 
「『粛清』後の最重点禁止事項のはずです。倫理規定にも反しますね」
「もし、そうだとしたらキールさんはどういう扱いになるんですか」
 ジェナスが言った。ルドワイヤン博士が答える。
「ひとがたでなく、ウォールナッツ・ブレインだったとしたら、ですか、ジェナス」
「そうです」
 ふむ、とルドワイヤン博士はキール・デリを色違いの目でちらっと見て、いいでしょう、と説明を始めた。
「彼らには自由はありません。生殺与奪を管理者に握られ、教育ではなくプログラムを与えられます。手足があれば切断されますし、反抗の意思があればロボトミーです。そして、ある一定の耐用年数を過ぎると濃硫酸液に漬けられて殺されます。人間ではありませんから」
「なんでそんなこと知ってるんだ」
 キール・デリの質問に、ルドワイヤン博士は説明と同じように、淡々と答えた。
「見たことがありますからね。そんなことがまかり通っていた時代もあったのですよ。ヒトでなければ何をしてもよかったのです」
 伯爵という称号は伊達や粋狂ではないのだとキール・デリは思った。過酷な、生きにくい時代を生き抜いてきたのだろう。
「私は思いますが」
 ホーバーはビンとキール・デリを交互に見ながら言った。
「これをキールさんの開発者であるエンライ氏が封じてしまったのは正しいと思います。おそらく企業命令と自分の良心に板挟みになって、こういう結果になったんじゃないでしょうか。企業トップがこれを何に使う気でいたにせよ、人間をもてあそぶのは許されないことです」
 ジェナスが言った。
「これで……これでいいですか、キールさん。僕はやめたほうがいいって言いましたけど……こういう結論になりました。いいんですか、これで」
 キール・デリは頭をひとつ振り、椅子に沈み込んだ。
「いい。これで充分だ。ジェナス、お前さ、俺のことを量産型のプロトタイプって言ったよな」
「言いました」
 それなら、とキール・デリは言った。
「俺がいなければ、そのウォールナッツ・ブレインというのははないんだろう。だからオヤジは俺を連れて研究所を出たんだ」
 そこに置いてあった自分のプレートを、彼は手にとってじっと見つめた。そしてまた自分の首にかけた。

 キール・デリは例の講堂にいた。自分と楽器の調整のためである。ブラッキィも彼の手元に戻ってきており、キール・デリはやかましくあれこれ言う黒うさぎをかまいながら、楽器ケースのふたを開け、練習の準備を始めていた。
 開け放したドアからキュルキュルと音を立ててリンダが入ってくる。頭の上にはストローをさした飲み物とちぎったレタスの入ったボウルが載せてあった。キール・デリはそれを受け取るとリンダに礼をいい、ドアを閉めて戻るように言った。講堂は空気が乾いているので、飲み物がないとのどをやられてしまう。彼は飲み物は楽器ケースの隣、演台の上に置き、レタスはそのまま床におろした。ブラッキィがやってきてもぐもぐとかじり出す。
「いまいちだな」
 不評だったのでキール・デリもボウルから一枚拾って食べてみた。硬くてがさがさしている。ブラッキィ用なので外葉も混ぜ込んだらしい。
「きーる、しぇふにれたすがまずいっていっておけ」
 文句をつけつつも、ブラッキィはレタスを全部平らげて机の間にまぎれこんだ。遊びに行ったらしい。ブラッキィを目で追っていると、さっきリンダが閉めていったドアが開いた。
「あ、キールさんここでしたか」
 入ってきたのはホーバーだった。彼は講堂の椅子のひとつに座ると、キール・デリにこう言った。
「よければ一曲聞かせていただきたいんですけど、駄目ですかね」
 じろっとキール・デリはホーバーを見た。
「ろくに指が動かねえ。十日も弓を取り上げやがって」
 すいませんねえ、とホーバーは笑いながら答えた。
「あの時はかなり栄養状態が悪かったのでじっとしててもらいました。あのままいったら倒れてましたから。健康診断の結果を見ていないんですか」
「健康診断? そんなのあったか」
 その答えにがっくりしたらしい。ホーバーはあのー、とキール・デリに言った。キール・デリのほうは現在、楽器を構えてはいるが音階のみを弾いている。まだ全然納得のいく状態ではなかった。
「面倒かもしれませんが、お渡しした検査結果は全部目を通していただけますかねえ。あの検査、通常でも新車が一台買えるくらいかかるんですよ」
「え、そうなのか?」
 ホーバーはため息をついた。まあいいんですけどね、とぼやく。
「今回はレアケースなんで、見える大きさまで培養をやりましたからその三倍かかってます。顕微鏡だとキールさん、見せられてもなんだか分からないでしょう。いや、こっちの勝手なんですけどね」
「あれ、そんなに高いのか?」
 キール・デリはびっくりして楽器を弾いていた手を止めた。ええ、とホーバーは話を続ける。
「それに支払い能力があると認められると、本当は全額本人負担なんですよ」
「やめてくれ」
 ほとんど悲鳴である。
「プレートの数字が本当だったんでジェナスがDランク亜人種扱いで書類を出しましたけど。通ったんでよかったですよ」
「Dランクってなんだ」
 学校の点数付けを思い出し、あまり穏やかでない気分でキール・デリは聞いた。それはそうだろう。たいていその下はEで「不可」扱いだ。そして彼は音楽と体育はいつでもトップだったが、それ以外の必須科目はほとんどDとEしかなかったのである。
「研究用のランク付けです。人間に近いほう、異種化RNA率の低いほうからA、B、C、Dとランクがあります。ジェナスはAA、カラットはBです。C、Dクラスはマン・ダミーとかフィンチとか、まあその辺です。この辺になると話もろくにできないのが増えてくるんで、書類しか見ないお偉方ならまあ大丈夫です。支払いがくることはありません」
 高額の検査費用を負担しなくていいことはよかったが、面白くはない。
「ロッキーと一緒かよ」
「数値的にはそれ以下です。中途半端に血液なんか調べられると面倒ですから、病院にかかるときには気をつけてくださいね。ばれたら終わりですよ」
 この一言に叩きのめされ、キール・デリは弾きかけていた楽器を置いてそこにあった椅子に座ってしまった。
「やめちゃうんですか」
 ホーバーが意外そうな顔になる。
「そんな話を聞いた後にできるか」
「思ったより繊細なんですね。培養体を見ても動じなかったんで、気にしてないかと思ってました」
 ひどい言われようである。それでも気を取り直し、楽器を構えなおしたところへカラットが入ってきた。
「ジェナス、いない?」
「いませんよ。ロッキーと外をやってるんじゃないですかね。排水溝からヘビが出るって騒いでましたから」
 ホーバーが答えた。相変わらずカラットの猫耳はぱたぱたと動いている。楽器を構えている彼を見て、カラットはこう言った。
「そういうのが入ってたんだ。それ、本当に音が出るの?」
 こちらもひどい。キール・デリはあきれて二人を一喝した。
「黙って座ってろ。うまくいかないかもしれないが、今弾いてやる」
 演奏が始まったのを聞きつけ、ブラッキィが机の間から出てきた。んん、と床の上で首をかしげる。カラットがブラッキィに気づき、床から自分の膝の上に拾い上げた。ホーバーは感心した様子で、カラットはただびっくりしている。すごーい、という声がカラットの口からもれた。
 しかし、一曲終わると二人の拍手を待たずに、ブラッキィはこう言った。
「だめだな、きーる」
「うるさい。分かってる」
 もう一曲、少し難易度を下げて短く演奏する。こちらはそれなりだったが、往来へ持っていくには程遠い。
「きーる、それじゃかねがもらえないぞ。やどだいが出ない」
「少し黙れよ」
 あまり内情をばらされたくないので、キール・デリはつい言ってしまった。ホーバーがおかしそうに見ている。三曲目にさしかかった頃、中央のドアを押し開け、また誰かが入ってきた。伯爵ことルドワイヤン博士である。
「コンサート中ですか。失礼しますね」
 キール・デリに気づいた後にきょろきょろと周りを見渡し、ついで椅子に座っているホーバーとカラット、それにブラッキィを見つけた。礼儀正しく演奏している曲が終わるのを待って、彼はホーバーをせかしにかかった。
「ホーバーさん」
 はい、とホーバーが何事かと返事をする。落ち着き払った様子で、ルドワイヤン博士は言った。
「先月の解析表で、五百二十八ページの数値ですが、表現体の構成に疑問があると連絡が入ってますよ。多能性細胞のパーセントがおかしいんじゃないかと。再検証してください」
「えっ? 再検証?」
「はい。クライアントから要請が来ていますよ」
 にこやかにすら見える表情で、ルドワイヤン博士は答えた。ホーバーのほうはさっきまでとは打って変わって、げんなりとしてしまった。仕方なしにゴトゴト、と音を立てて椅子から立ち上がる。
「あれ、またやるんですか。検体から分離するだけで二週間もかかるのに……。コンピューターの再計算じゃ駄目ですか」
 ルドワイヤン博士の表情は変わらない。 
「やってくださいね。手伝いますから」
「……はい」
 すごすごとホーバーはルドワイヤン博士に連れられて出て行った。あまりの気落ちっぷりにキール・デリはつい言ってしまった。
「まるで処刑されるみたいだな」
「その通りよ。結果が出るまで研究室に伯爵とカン詰めだから」
 げっ、と彼は思わず言ってしまった。研究者も楽ではないのだ。ブラッキィがルドワイヤン博士について、カラットの膝の上から疑問を述べた。
「あのきばはのびるのか」
 うーん、とカラットが答える。
「それはないと思うわ」
「そうなのか。ふしぎだな」
 ブラッキィがまた何か変なことを言い出すのではないかと思って、キール・デリは楽器を持ったまま、壇上からカラットのすぐ近くまで降りていった。そのままカラットの正面に立つ。
「おい、ブラッキィ」
「なんだ、きーる」
 当のブラッキィはカラットの膝の上で至極満足そうである。だんだら模様のついた手でなでてもらい、眠たそうな顔をしていた。
「あったかくてきもちいいんだ。じゃまするな」
「そこからどけよ」
「いやだ」
 くすくすとカラットが笑う。
「いいよ、大丈夫だから」
 すかさずブラッキィが言った。
「おれもだいじょうぶだ」 
「何がだ。いいかげんにしろよ」
 あきれたキール・デリは両手をふさいでいた楽器を目の前にあった机に置き、カラットの膝上にいるブラッキィの襟首をつかんだ。その時である。
「あっ、カラット。ここにいたの」
 ジェナスが講堂のドアを開けて入ってきた。さっきまで何か作業していたらしく、腕まくりをして顔には黒い泥がついていた。そうっと後ろからロッキーがついてきている。ロッキーは中を確認すると持っていた道具をしまいに、またドアから出て行った。
「二人だけ? 他に誰もいないの?」
 言われてキール・デリはまわりを見渡した。カラットもそういえば、という表情になる。
「ああ、そうだな」
「きーる、おろせ。いたい」 
 気づいてキール・デリはブラッキィをまたカラットの膝の上に下ろした。ブラッキィはむくれながら膝から飛び降り、机の間に隠れてしまった。
「あのー、キールさん」
 ジェナスが小声で彼のそばにやってきた。そのままカラットから離れた位置にひっぱっていく。よく見ると目がつりあがっていた。
「カラットに何かしてませんよね?」
 小声ではあるが、口調がきつかった。
「何かって、なんだ?」
「だから、ずっと二人だったんでしょう」
 キール・デリはあっけに取られ、それから頭を抱えたくなった。
「あのさあ」
「なんですか」
 煮上がっているジェナスの顔を見ているうちに、彼はなんとなく底意地の悪い気分になってきた。珍しいことである。ひとつからかってやろうと、キール・デリは大股でカラットの座っている近くまで歩いていった。
「お前が言っているのはさ」
 座っているカラットの手を取り、立ち上がらせる。なんだろう、という感じでカラットは素直に立ち上がった。
「こういうことだろう」
 そのまま素早くカラットのことを後ろから両手で抱き寄せた。互いの顔は息がかかるほど近くにある。
「ち、ちょっと、離してよ」
 ジェナスの表情は数秒の間にくるくる変わって、最後に怒りながら間に割って入ってきた。
「キールさん、なんてことするんですか! カラットそこどいて!」
 ひったくるようにカラットのことをキール・デリから突き放す。その後、キール・デリの言ったことがジェナスの怒りをさらにあおった。
「おまえ、意外と胸でかいんだな」
「キールさん!」
 ジェナスはカラットの手をしっかりと握りしめると自分のそばに引き寄せた。そしてこう宣言した。
「カラットにへんなことをするようなら出て行ってもらいます。いいですね! カラットもここにいちゃ駄目! いくよ!」
 そしてカラットを引っ張ってばたばたと講堂から出て行った。キール・デリはしばらくそれを見送っていたが、また楽器を構えて演奏を始めた。かわいらしい、どこかで聞いたようなワルツである。ここにくるきっかけとなった老人会のパーティでリクエストに入っていたのだが、時間の都合でやらずじまいの曲だった。
「こんどのはいいな、きーる。きっといっぱいかねがもらえるぞ」
 ブラッキィが机の間から出てきて寸評を述べた。
「そうか、ありがとよ。ブラッキィ」
 キール・デリは楽器を引く手を止め、ブラッキィにある質問をしてみた。ずっと彼の中で引っかかっていたことだった。
「もし俺が俺じゃなくなったらどうする、ブラッキィ」
 んん、とブラッキィは首をかしげた。
「きーるはきーるだろう。おれはぶらっきぃ。ほかになにかあるのか」
 ないこともない。そう思ったのち、キール・デリはいや、と思い返した。ブラッキィが正しいのだ。
「その通りだな」
 ブラッキィが胸を張る。
「そうだろう」
 この曲が終わったら出て行こう、キール・デリはそう決めて演奏の続きを始めた。指もだいぶ動くようになっていた。

 

   

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