草聖

 じいちゃんの家には、いろんなものがいっぱいあった。いつも僕は壊れかけたような掘建て小屋のすみっこから、漢時代の木簡や竹簡、過去の名筆家の拓本、石壁から取って来た本物の磨崖碑文等、不思議なものを引っ張り出してはじいちゃんに見せに行った。
そのたびにじいちゃんは
「こんなものがあったのかい」
と言って、それが何なのか丁寧に説明してくれた。
 じいちゃんの説明は子供に聞かせるには少々難しすぎたけれど、それでも僕は何かを見つけるたびに、じいちゃんの説明を聞きに行っていた。
 じいちゃんはものすごく物知りで、詩歌や書を僕に教えてくれた。文字を教えてくれたのもじいちゃんだった。けれど、両親はじいちゃんの家に僕が出入りする事について、あまりいい顔をしなかった。
「貧乏人の子が学問などして何になる」
口には出さなかったが、はっきりとそう思っていたようだ。
「そんなことをしていないで家の仕事をしろ」
そんな風に言われた事もあった。ただ、家の裏手に住んでいて、昼間うるさい子供の面倒を見てもらっている訳だから、あまりじゃけんにはしていなかった。だけど、僕が習ってきた詩を暗唱したりすると
「やめなさい」
と必ず怒られた。
 今でもじいちゃんが本当は何者だったのか、僕にはよく分からない。僕はひそかに、じいちゃんは仙人なのではないかと思っていたくらいだ。白いあごひげを腰の辺りまで伸ばし、皺だらけの顔はいつも笑っていた。僕の家よりも貧乏だったのに、なぜか墨や書簡などが家の中にはごろごろしていた。そして詩や書のほかにも物語などにも造詣が深くて、「三国志演義」や「論語」なんかもじいちゃんの家にはあった。「論語」は
「役に立つ」
と言われて書き写させられたりしたが、あまり面白くなくてじいちゃんの家に置きっぱなしにしてしまった。今思うと随分ともったいない事をしたものだと思う。
「じいちゃん、これ何?」
 ある日、草ぼうぼうのじいちゃんの庭に降りてみると、とんがった細長い草の葉になにやら書き連ねてあった。よく見るとそれも一本だけではなくて、いくつもいくつも、同じように文字の書かれている葉が見つかった。
「ああ、それか」
じいちゃんはいつものようににこにこと笑うと、こう言った。
「そこで書の練習をしたんじゃよ。紙を買う金がなくてなあ」
気づけば家の中にもたくさんの草の葉が散らばっていた。
「僕も書いてみたい」
僕がそう言うと、じいちゃんは葉を折り取り、硯を出してきてくれた。
 同じようにじいちゃんの字を手本にして書いてみる。
「ふうむ、筋がいいな」
じいちゃんは僕の書いたものを見ては、丁寧に違うところを直して行った。その直したものを見てまた書く。それからは草の葉で書を教わるのが、僕の日課となった。
 けれど、じいちゃんは仙人ではなかった。その証拠に僕が十三の時、じいちゃんは眠ったように逝ってしまった。じいちゃんは一人で住んでいたから、一番近くて付き合いのあった僕の家が葬式を出した。葬式と言ってもみな貧乏だから簡単なもので、近所の人達と僕の両親がじいちゃんを墓に埋めに行った。その間僕は何もする事がなくて、ただぼんやりとその辺に突っ立っていたような気がする。
 しばらくして、もう誰もいないじいちゃんの家に一人の男がやってきた。馬に乗り、いい身なりをしたその男は道端で僕に話しかけてきた。
「この家の主はどうした」
死んでしまったと答えると、男は驚いた顔をした。
「なんと、孫(そん)殿は亡くなってしまわれたのか?一体いつのことだ」
もう十日も前の事だった。男は僕に皇帝の使いだと名乗り、じいちゃんの家の中を案内させた。
「なんてところに……」
その後の言葉が続かなかったらしい。狭くて何もない家の中は静まり返って、床には僕が練習した草の葉が散らばっているだけだった。
 黄色くて、くちゃくちゃになっている葉を拾い上げた男は、僕に聞いた。
「この字は誰が書いた」
「右側がじいちゃんで、左のは僕だよ」
「孫殿に書を習っていたのか」
「うん」
しばらく考え込んで、やがて男は丁寧な手つきで床に散らばった葉を拾い集め出した。
「どのくらい書けるようになった」
「千字文をこの前、全部書いたよ」
「ほかには」
「蘭亭叙を三回書いた」
僕はこの男がじいちゃんに、何の用があるのか知りたかった。
「なにしにきたの」
「手紙を書く者を探しているのだ。昔役所に勤めていたことを思い出して、ぜひ孫殿にと思ったのだが、まさか亡くなってしまっているとは……」
話しながら葉をすっかり拾い集めると、男は僕の名前を聞いた。
「名はなんという」
「芝延(しえん)だよ」
「年は」
「十三」
考え考え、男はまた来た時のように馬にまたがって帰っていった。宮廷から僕にお抱え書家の要請がきたのは、その二十日後のことだった。
 そうして今、僕はじいちゃんのおかげで書家として仕事をしている。唐の名筆家、孫過庭(そんかてい)の弟子として僕は身に余るような大きな仕事を貰えたし、じいちゃんはあの草葉の書がきっかけとなって、『草聖』という称号を貰った。僕の家族もあの掘建て小屋を出て、きれいな家に住めるようになった。
 だけど僕はじいちゃんに生きていて欲しかったと思う。『草聖』なんて称号を貰っても、死んでしまってからでは何の役にも立たない。今の僕があるのもじいちゃんのおかげで、それはよく分かっているのだけれど、僕はもう少しあの掘建て小屋で、じいちゃんに書を教わったり、物語を読んでもらったりしていたかった。
 じいちゃんのことを思うと浮かんでくる言葉がある。誰の言葉なのか分からないのだけれど、じいちゃんを偲んで僕はこれをとんがった、細長い草の葉に書いておこうと思う。


   離散的霊魂 伴著侯鳥 随著風
   再相会在這同一的天空


 本当の事を言うと、僕はまだじいちゃんが死んだような気がしない。今でもあの家で白いあごひげを腰まで伸ばして、にこにこと僕が遊びに来るのを待っているような気がする。でももうじいちゃんがいない事は確かだから、僕は願いを込めてこの言葉を書いておく。
 またいつかじいちゃんと会えますように。

                           

 

  

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