チビスケ


 新品のカバンを振り回しながら、美津子は夕方の通学路を歩いていた。昨夜の台風で大きな水たまりが道のあちこちにできていて、跳ね上げないように、美津子はかなり注意をしていた。
(もう、やだなあ)
 池のような水たまりが彼女の行く手を塞いでいた。ここは朝も通れなくて、美津子はやっと端のほうを通って中学校に行ったのである。
 朝とどこか違いはないかとぐるりと見渡す。すると、水たまりに何か泳いでいるのが目に入った。十センチほどの細長い、半透明の生き物だった。
 今まで見たことのないものだったから、美津子は思わずその場にしゃがみ込んでその生き物を観察した。うなぎのような、ヘビのようなその生き物は彼女には構わず悠々と水たまりを泳いでいる。
 愛嬌のある大きな目がきょろりと動いて美津子を見た。
(捕って帰ろう)
 すぐ近くに壊れかけたプラスチックの容器が落っこちていた。美津子は目ざとくそれを見つけると、目の前の水たまりで泥を洗い落とし、雨水ごと小さな生き物をすくい上げた。
(変なの。なんだろ、これ)
 プラスチックの容器に入れられても、奇妙な生き物は相変わらずの様子だった。熱帯魚を趣味にしている父親なら知っているかもしれない。美津子はカバンを汚さないように、さっきの倍以上の注意を払いながらその生き物を家に持って帰った。
 ところが、
「なんだろうなあ。俺も見たことないよ」
 去年の夏にかぶと虫が入っていた透明な水槽に入れられ、悠々と泳ぐ姿に美津子の父親も首をひねった。
「前足があるからカナヘビの一種じゃないかな。でも水性のカナヘビって知らないな」
「なんだあ。パパも知らないんだ」
 首をひねる父親とがっかりする美津子の前で、小学生の弟の俊二だけが喜んでいた。
「ねーちゃん、超かっこいいよ。どこで見つけてきたんだよ」
 小さいくせにどことなく風格があった。よく見ると怪獣のような面構えでもある。ただきょろっとした大きな目が不思議な愛嬌を持っていた。
「飼うの」
 母親が口を挟んだ。えっ、とくちごもる美津子の前で、俊二が
「もちろん」
と言った。
「飼うって言ったって、何食うんだろうな」
「なんかやってみたら」
 いつの間にか父親と俊二で夢中になって話している。美津子が見ていると、父親は熱帯魚のえさを取り出した。
「そんなんでいいのかよ。かいじゅうなんだぞ」
俊二が文句を言う。
「いいから」
 父親が言いながら、大粒の浮き餌をいくつか水槽に落とした。そのうちのひとつが水を吸って底に沈んでいく。それに半透明の生き物はぱくっ、と食いついた。
「おっ」
「あっ」
 あごを動かしながら目をきょろきょろさせて上の方を見る。水面に餌が浮かんでいるのに気がつくと、そこまで寄って行き大きく口を開けた。
「名前はなんにする?」
 美津子が言うと
「やっぱチビスケだよ」
 弟はそう言った。母親は
「ちゃんと自分達で面倒を見るのよ」
と言っただけだった。かくて、この不思議な生き物は美津子の家の一員となった。
 俊二が飼うといったものの、チビスケの世話は美津子の仕事になった。弟は餌をやるときだけやってきてあれこれ口出しする。そのくせ、水槽の水替えなんてときはさっさといなくなってしまう。
「チビのやつ、でかくなったと思わない?」
 ある日の午後、弟が水槽を見ながら美津子に言った。いわれてみると、確かにチビスケは一回りほど大きくなっていた。
「ほんとだ」
 美津子が見ると大きくなっただけではなく、下あごにヒゲが生えてきていた。チビスケを飼いだしてから三ヶ月ほど経ったころである。その間に俊二は近所の友達にチビスケをめいっぱい自慢し、美津子は中学校の友人達の間で話題を提供した。中学校に入ったもののなんとなくクラスになじめなかった美津子には、友達と遊ぶいいきっかけにもなった。
「狭くない、この水槽」
 美津子達が見ているのに気がつくと、チビスケはぱかり、と上下に大きく口を開けた。餌が欲しいらしい。
「よく食うなあ」
 文句を言いながら俊二が餌をやった。チビスケは餌を追いかけて水槽の中を動き回る。細長い体を追いかけて、なまずのような髭がついていった。
「タテガミ生えてきたよ」
 俊二が指摘した。よくみるとふさふさとした毛が頭から首の後ろあたりにかけて伸びてきていた。
「へんなの」
 半透明だったチビスケの体は薄いグリーンに変わっていた。日に当たるとうろこが反射してきらきら光る。窓越しの柔らかい日差しに、チビスケは気持ち良さそうに水槽の中でえさを拾っていた。
 美津子が高校に入る頃、父親は家を新築した。今までのマンションから庭のある一戸建てに引越し、俊二は犬が飼えると喜び、彼女の母親は庭にせっせとマーガレットや矢車草を植えていた。
「おーい。美津子、俊二、手伝え」
 よく晴れた日曜日、父親は子供達に声をかけた。何事かと二人が庭に出てみると、腕まくりをした父親は庭に大穴を掘っていた。
「なにしてんの」
 山盛りの土のわきに、プラスチック製の池が置いてあった。大きさは一メートル五十センチ、深さは三十センチぐらいで、睡蓮などを植えておく園芸用のものだった。
「両脇を持って、ここに置くんだぞ」
 父親の指示通りに二人は穴の真ん中に池を設置した。俊二が手伝って、掘り出した土を空いている隙間に埋め戻す。最後に池の中をきれいに洗い、水を張った。
「俊二、チビの水槽持って来い」
 えー、あれ重いのに、そうぶつぶつ言いながら、中学生の弟は家の中に水槽を取りに行った。その間に父親は、近所のホームセンターで買ったホテイアオイを二つ取りだし、池に浮かべた。
「お父さん、チビをここに入れるの」
「もう水槽のサイズがないだろう」
 やっとという感じで、俊二が水槽を運んできた。この頃になるとチビスケの水槽は、六十センチもあるような巨大なものになっていた。
「ああ重かった」
 ふうふう言いながら、俊二が水槽を持ってきた。そうっと池の隣にそれを置く。
「がんばれー」
と美津子が言うと、弟は
「重たかったんだからな。見てるだけなんてずるいぞ」
と文句を言った。
 雑魚を取るようなタモ網で、父親が水槽の中を掻き回す。すると、ずしりとした感触と共にタテガミと髭のある顔が持ち上がってきた。
「きゅううう」
 水から出されたのが嫌らしく、チビスケが文句を言う。父親はそっと網を池の水に浸した。
「でかいな」
「チビってこんなだったんだあ」
 もそもそとチビスケは網から這いだし、プラスチックの池に移った。四十センチほどに成長した体は青緑色に変わり、背中の中ほどまでタテガミが生えている。きょろりと池の中から彼らを見上げ、小さな前足を動かしてホテイアオイの間を泳ぎまわった。
 水音を立ててチビスケが池の中から顔を出した。美津子の顔を見て、ぱかりと口を開ける。
「ねーちゃん、えさだってさ」
「パン取ってこい、パン」
 美津子は台所にある残り物の菓子パンを取りに行かされた。
 その年の夏は雷がひどかった。毎日のように夕立がおき、夜は土砂降りになった。自転車で高校に行っていた美津子は家に帰れなくなり、母親に車で迎えに来てもらうことも多かった。夏休みに入っても夕立は止むことはなく、地域の花火大会が幾つか中止になることもあった。
「うっひゃあ、すげえよ、外」
 ばたばたと俊二が家に帰ってきた。今日はサッカーの試合だったのだが、あまりにも雷がひどいのでどこにも寄らずに、まっすぐ家に帰って来たのである。
「おかえり」
 母親が声をかける。まだ五時だというのに空は夜のように暗かった。ところどころに雷光が走り、ただごとでない雰囲気すらかもし出していた。
「チビのやつ、大丈夫かなあ」
 冷蔵庫からサイダーのペットボトルを出し、俊二が庭を見る。
「直接飲むんじゃないの」
 母親がコップを弟に渡し、注いで飲むように言った。分かったよ、と俊二は左手にコップ、右手にペットボトルを持って返事をした。
 テレビを見ていた美津子も並んで外を見た。プラスチックの池には大粒の雨が落ちて波を打っていた。
「平気じゃん。昨日もこんな天気だったし」
 美津子は弟からサイダーを取り上げ、自分のコップを出して注いだ。俺のだぞ、と俊二が言う。
「チビさー、外出してからでかくなったよね」
 構わず美津子は弟に言った。
「そうかなあ」
「倍ぐらいにはなったよ」
 チビってさー、そう美津子が言いかけた時だった。
 瞬間姉弟の立っている前が真っ白くなり、どーん、ばりばりばり、という轟音が響いてきた。同時に地響きが新築の家を揺るがした。
「ねーちゃん、見た?」
 う、うん、と美津子は返事をし、あやうくサイダーをこぼしかけた。見ると、となりの弟はすっかりコップをひっくり返してしまっていた。
 白い雷光は空から地面ではなく、地から天へ昇っていった。その発生源はあのプラスチックの池であり、二人が見たものは白光を駆け上がる青竜の姿だった。
「あれって……」
「……うん」
 母親がどうしたの、とタオルを持ってやって来た。二人は上の空で、母親があれこれ言うのを聞いていた。

 美津子はその後一度だけ、チビスケと会った。高校を卒業してから彼女はある大手電機メーカーに事務職で入った。チビスケがいなくなった後、俊二と父親は相談して犬を一匹飼い、母親はあの池に睡蓮を植えた。
「ねえ、ちょっと見てよ」
 お昼休みに近所のコンビニまで同僚と弁当を買いに行った時だった。
 先に買い物に行った女の子達が、晴れた空を見上げて騒いでいた。その視線の先には、ほどよく膨らんだ入道雲がぽわん、と浮いている。ほらほら、と一人が美津子に雲を指差した。
「何かが雲の中を出たり入ったりしてるの」
「うん、見える見える」
 その横では何にもいないよ、と言う女子社員もいて、美津子も同じように空を見上げた。
「何かいるようにも見えるね」
 はっきりとは見えなかった。いると言われればそんな風にも見える、そう言おうとした時だった。
 青緑色の光る体が白い雲の前を横切った。遠く小さく見えたが、何百メートルにも成長した青竜が悠々と空を泳ぐ。見たことのある、きょろりとした目と長い髭がはっきりと見て取れた。
 かなりの距離があるはずなのに、チビスケは美津子に気がついた。こちらを見て、甘えた仕草でぱかりと口を開けた。
「ち、ちょっと、口、開けたよ」
同僚の女の子が美津子の脇腹をつついた。
 チビスケはしばらくそうやっていたが、美津子が何にもできずに立っているのを見て、すいと雲の後ろに隠れてしまった。自分の目の前に、彼女がいないことが分かったのかもしれなかった。
「あれ、なに」
 一緒に買い物に出た女の子が、美津子に聞いてきた。暖めてもらったお弁当を持って、美津子は答えた。
「チビスケ。昔、ウチで飼ってた」
 やだもう、冗談きついんだから、と彼女が笑う。
「ほんとだよ。あたしが拾ってきたんだから」
 言ってはみたものの、まるで本当に冗談にしか聞こえず、美津子も一緒に笑ってしまった。
 明日は休みで、両親も大学生の弟も家にいる。チビの話をして、犬の散歩にでも行こう、そう美津子は思った。きっとみんな喜ぶだろう。そういえばここしばらく、家族ともまともに話をしていないような気もする。
「ねえねえ、あのドラマ見た?」
 話題はいつのまにかテレビのことに移っていた。うん、見たよ、と美津子は答え、話を合わせた。あの俳優、かっこいいよね、とたわいないことを喋りながら、彼女は会社に戻っていった。

 

   

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